あの弁護士がどうなってもいいのかい?
控え室の外の廊下は慌しく行き交う人々で混雑していた。私のその中で、青色だけを見ていた。
成歩堂が綾里真宵と共にいた。表情を緩ませ、不安げに彼を見上げる少女に対して何か言っているようだった。
私の場所からは遠すぎてそれは聞こえない。
そんな彼らを見張るように、数人の刑事が距離を保って二人を取り囲んでいた。
彼の姿を視界の中に入れたまま、ぼんやりと先程の台詞を思い返していた。
小中大。彼の持つ会社と情報は私の属する検察庁内でも恐れられていた。
私はその噂を耳にしつつも特に気に掛けてはいなかった。
犯罪すれすれの恐喝を行っているらしい───その程度の認識しかない。
最も、私がそれを疑問に思い調査したいと申し出ても検事局長によって全面的に禁止されていたのだろうが。
そのような男が殺人罪で逮捕されたとしたら?
私は頭の中で架空の物語を作り始める。その結末が確実に悪いものになることを予感しながら。
今回の裁判の前に私が検事局長に命令されたことからわかるように、小中大の権力は
検事局のトップにまで及んでいる。ということは警察局をも手中に収めている可能性も高い。
どの組織も上を押さえられてしまえば全てが簡単に落ちてしまう。組織とはそういうものだ。
小中氏がこの裁判をきっかけに逮捕されたとしても、一体それが何になる?
たかが人を一人殺したという罪では小中氏は裁ききれない。
茶番のような裁判が、検事と弁護士を変えて再び行われる。それだけだ。
しかし結論は変わる。小中氏はまんまと無実を手に入れ、今まで通りの仕事に復帰するだろう。
まるで何事もなかったかのように。
彼の権力を失墜させるような何かがあれば、また違ってくるだろうが。
弁護側が完全に被告人を無罪と出来るのならば。
成歩堂が自分の身の潔白を証明できれば、全てが終わる。そう思っていた。
しかしそれは間違いであった。話はそんなに簡単ではない。
成歩堂が無罪を勝ち取り、なおかつ小中大の権力とその存在を完全に打破する。
果たして成歩堂にそれが出来るのだろうか。
彼を見くびっている訳ではない。しかし、この状況でたった一人で。
的確な助言を与える綾里弁護士は死に、彼の隣にいるのは素人の少女が一人。
そんなことは不可能だ───
自分の中で描いた仮説が絶望に辿り着いた時。成歩堂が私に気が付き、笑顔で近付いてきた。
■
■
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成歩堂が扉を閉めると騒々しさがぴたりとやんだ。
先程とはまた別の控え室に私と彼はいた。他の人間の気配はない。
彼について来ようとする刑事は私が検事の権限で追い払った。
不信感でいっぱいの視線を向けられたが、私は意に介さなかった。
あの人の多すぎる廊下で、検事の私と被告人の彼が言葉を交わすには目立ち過ぎる。
私は同じように壁際に置いてあったソファーへと腰を下ろした。
成歩堂は座ろうとはせず手に持っていたコーヒーの缶の、ふたつの内のひとつを私に差し出してきた。
「差し入れ。真宵ちゃんが買ってきてくれたんだけど」
きつい視線を返したのは彼の好意を跳ね除けたかったからではない。
あまりに能天気な様子にわずかな苛立ちが生まれたのだ。
しかし成歩堂はそれを緩めた頬で受け止める。
それだけで、私の心からも刺はいとも簡単に流れていってしまう。
「いただこう」
フンと偉そうに返しても成歩堂は動じない。へらりとまた笑うと私の隣に腰を下ろした。
私の手にコーヒーの缶を押し込むと、もう一本の蓋を開ける。
狭い飲み口からでもコーヒーの香りが鼻に届く。
張り詰めていた気がその香りと温かみで解けていくような気がした。
これから、一体どうなる───
何度も繰り返した疑問。それを追う内に思考がぼんやりとし始めた。
ぼんやりと考えても、先程自分が弾き出した最悪のシナリオは変わることがない。
様々な人々に取り巻かれた事件。この裁判の結末。この先の未来。
有罪か無罪のどちらかで未来はがらりと変わる。変わる、はずなのに。
この隣に座る男の未来は暗いものにしかならないのだ。
有罪か、無罪か。……そのどちらかでも、彼は。
「成歩堂」
ぼやけた思考にも関わらず私の声ははっきりとしていた。
二人の間に流れていた束の間の時間を一瞬で壊してしまうほどに、冷たく響く。
成歩堂は少し首を傾げるが、何の疑問もない様子で私の顔を覗き込んだ。
「ずっと考えていたのだが」
「なんだ?」
不安などかけらもない声。彼に気が付かれないよう、心の中でそっと頭を振る。
そして用意していた台詞を口にし始めた。
「私は検事だ。私の仕事がどういうものなのか……わかるか?」
成歩堂はその質問の答えではなく、今更と言っていい質問をする私の意図が
わからなかったのだろう。怪訝な顔のまま頷いた。
私はそこで自身に表情を変えるよう命令をした。相手を嘲るような、見下すような微笑みを作り出せと。
私の表情と比例して成歩堂の瞳が大きく見開かれていく。
「どうかしていた。あやうく君に騙されるところだったよ」
「騙すってどういう意味だよ」
不快感を露わに成歩堂は私を睨み返した。心外だとも言いたげに。
薄い笑いを張り付けて私は言葉を続ける。
「君は私が検事だから近付いたのだろう?」
「そんなわけ、ないじゃないか」
「近付いて情報を聞きだすつもりだったのか?残念ながら私はそこまで愚かではないぞ」
「なに言っているんだよ、御剣」
最初はひとつの、とても小さな点。
成歩堂の瞳に暗い小さい光がぽつりと生まれた。
それは見る見るうちに増えていき、やがて彼の瞳を悲しく濁らせてしまう。
私の見ている前で、私の言葉によって。
「これ以上この事件に関わるな。……不愉快だ。
貴様のような腐った弁護士と対面するなど私には耐えられない」
酷薄に見える笑みを作るよう、頬の筋肉を意識しながら私は彼に言い放った。
缶を握る、両手が震えているような気がする。でも私にはそれを確かめるすべがない。
成歩堂の顔から目を離せないのだから。
成歩堂は首を大きく振った。二度、三度、そんなことは出来ないと拒絶する。
「忠告すら聞けないとは……愚かすぎるとは哀れなものだ」
最初は私の変化に戸惑い目を泳がせていた成歩堂だったが、ずっと注がれ続ける
侮蔑の視線に憤りを感じたようだ。私にも負けず劣らずの硬い口調と低い声で私の言葉を跳ね除ける。
「ぼくが逃げたら真宵ちゃんはどうなるんだよ。出来もしないことを言うな」
あまりに彼らしい台詞に思わず口元が緩んだ。
その時の笑みは自分でも特に意識のしていないものだったが、彼にとっては侮蔑に感じられたらしい。
彼のプライドではなく、背後に庇う人間の存在があるからこそ彼は退こうとしない。
私はもうひとつ用意していた道を選び取った。
「私の目の前にもう二度と現れないでくれ。あの少女も同様だ」
成歩堂の怒りの感情が火を噴く前に、私は唇を動かして彼に告げた。
「今から新たな証拠品を提出し、他の人物を起訴する」
「な……」
成歩堂は愕然として私の顔を見返した。
───綾里真宵でもなく、成歩堂龍一でもない人物を起訴する。
そのためには様々なものが必要だろう。今のままでの証拠品では不可能だ。
そして、それら全ては私の手によって捏造することとなるだろう。
調書の捏造。証言の操作。事件後に作られた証拠品。
真実など関係なく、私の頭の中だけで描かれたシナリオに沿うようにして事件を片付ければいい。
目撃者調書を捏造して全ての捜査を完了させる。有能な私にならできるはずだ。
そうすれば成歩堂も手を出せなくなるだろう。
「何言ってるんだよ、御剣!そんなことしたらお前は……」
私の腕を掴み、必死に訴えてくる彼の手を払い除ける。
言われなくともわかっている。
そんな、見るも明らかな捏造を犯してしまったら私はもう検事を続けることが出来なくなるだろう。
ただでさえ、今私が立たされている立場は微妙だ。
微妙どころか崖から突き落とされる一歩手前にいると言ってもいい。
それでも、私の選ぶ道は。
「証拠品の捏造など私には他愛のないことだ。いつも通りのことをするだけだ」
成歩堂の瞳がこれ以上ないくらいに見開かれた。
私に拒絶された腕を動かすことも忘れ、成歩堂は呆然として私を見つめていた。
私は自分の言った台詞を頭の中で反芻し、もう一度笑ってみせる。より酷薄に、より冷徹に。
ゆらりと。成歩堂の瞳が揺れた。
音のない瞬きを繰り返し、自分の目の前にいる男の存在とその男が放った言葉を飲み込んでいるらしい。
まぶたが何度も下りていくうちにやがて、成歩堂の目がはっきりとした意識を取り戻す。
彼は立ち上がった。
私もつられて顔を上げる。私を無言で見下ろす、彼のその瞳に刻まれていた感情は───軽蔑。
成歩堂は動きを止める。歩き出す気配はない。
黒い瞳はもう何も語ってはいなかった。何も物言わぬ瞳。感情を捨てた表情。
「…………」
先に耐え切れなくなったのは、私の方だ。
視線を床に落とした私に成歩堂はやはり何も言わない。
そして歩き出す。私の隣から、私の前から、私のいる場所から。
そうだ、そのまま振り返らずに離れていけばいい。
これでいい。
ほっと息が、ずっと結んでいた唇から漏れた。
それとは別にまた胸が痛んだ気がしたが、それは些細なことだ。
どう転んでも不幸にしかならない裁判を彼に受け持たせることはない。
綾里弁護士の無念を晴らすことを一番に願うのならば、彼はこの先にもっと活躍をするべきだ。
こんなところで躓かせるわけにはいかない。
再度短い息を吐き出したその後に。
俯いた視界の端に黒い靴の先が掠った気がした。私は疑問に思う。
それは私とは逆の、外へ繋がる扉へと向かっていたはずだ。……どうしてまだここにあるのだろう?
確かめようと顔を上げた瞬間、強い力で両肩を掴まれた。
持っていた缶が手から離れ床にぶつかる。カンと耳を突く音。 しかしそれは途切れて消えた。
さらに大きな音が控え室に生まれたからだ。
強い力で壁に押し付けられ、突然のことに呼吸が止まった。
「ふざけるなよ」
凄むようにそう間近で囁かれ、恐怖に身が竦んだ。成歩堂だ。
成歩堂が私の身体を壁に追い詰めていた。安定感の悪い乾いた音が部屋に響く。
飲みかけのコーヒーを吐き出しつつ、床を転がっていく缶が発している音なのだと思った。
私は激怒する成歩堂を前にそんな場違いなことを考えていた。
しかし、目は彼の顔から離すことが出来なかった。
「ぼくだって覚悟を決めて法廷に立っているんだよ。何でも話せるのが本当の友達じゃなかったのか?」
噴きあがる感情を自分の中で押さえつけて話しているのだろう。
静かな語りが余計に、彼の私に対する怒りを感じさせた。
「ぼくを信じていないからあんな下手な芝居をするんだろ?見くびるのもいい加減にしろよ」
ぐっと肩に力が込められた。
同じ台詞を繰り返そうとしたのだろうか、成歩堂は再び口を開く。しかし何も声は出てこない。
黒い瞳がぐにゃりと歪む。向けられていた視線がふっと力を失った。
そこで私はようやく気が付いたのだ。
成歩堂には全てわかっている。私が嘘をついて、わざと彼を遠ざけようとしたことを。
そして、彼が激怒しているのは私の言動だけではない。
嘘をつかせてしまった自分自身に最も怒りを感じているようだった。
しばらくして成歩堂の手も瞳と同様、力を失い私の肩から離れていく。
けれども瞳は私を捕らえたままだ。そこに光はなく、暗い感情が濁っていた。
それは、自分が信用されていなかったという失望の。
私がそんな成歩堂に対して出来たことは。
「すまない……」
掠れた声の、謝罪だけ。
俯いて呟く。
痛いと思った。突然、無理に壁に押し付けられた背中が。強く握られていた腕が。そして何よりも。
いつでも希望に輝いていた彼の瞳が苦しげに歪んでいる事が、とても。
とても痛いと思った。
「でも」
気まずい沈黙に投げ込まれた短い言葉に私は思わず顔を上げた。
成歩堂は私に向けて笑う。先程とは全く異なる表情。そして以前と全く変わりのない親しげな笑顔。
「気持ちは嬉しかったよ。ありがとな」
「いや……私の方こそ申し訳なかった」
素直な言葉につられて私もまた素直な心でもう一度謝罪する。無理に作った表情の数々を崩しながら。
不器用な私の笑い顔を返され、成歩堂はさらに笑う。
自分の思い通りに彼は私から離れていかなかった。
予想は完全に裏切られたのに、どうして自分はこんなにも安堵しているのだろう?
そう疑問に思いつつも、私は彼の笑顔に自分も笑顔を返してしまうのだった。
成歩堂は黒目をくるりと動かして私を軽く睨んだ。
「だいたいさ。ここまで来て手を引けっていうのも、もう無理な話だろ」
「ム。それもそうだ」
「とにかくぼくは。どうなっても、絶対、真実を明らかに……」
以前、口にした決意と同じものを成歩堂はもう一度言う。
私は彼の言葉を途中で拾い、同じ決意を自分で宣言した。
「私もだ。何があっても真実を明らかにしてみせる」
成歩堂は驚いたように私を見返した。
あの時の私には曖昧に頷くことしかできなかった。しかし今はもう違う。
検事として法廷に立つ時、有罪を求めることこそが使命だと思っていた。
それが自分に課せられたものなのだと。でもそれでは何の解決にはならないのだ。
私は身長の近い彼の瞳を正面から見つめた。自分の手の近くにあった成歩堂の手を掴んで。
そして頷く。わずかな仕草だが、込められた意志は何よりも強い。
成歩堂も強い力で私の手を握り返してきた。それは、戦いの前に交わす握手。
楽な道に決して逃げ出そうとしないこと。真実を明らかにし、全ての者に平等な明るい未来を。
誓いを込めてお互いの手を握り締めた。
心と心が引き合うというのはこんなにも素晴らしい事なのだと悟る。
信頼し、信頼されるということだけで、証拠品などなくともこんなにも力強く思える事なのだと。
人を信じるという気持ちが大切なものだということを、私は成歩堂に教えてもらった。
自分と正反対の位置に立つ、とても、大切な友人に。
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