top> 嵐の夜に_12雲の切れ間に
※この話は絵本[あらしのよるに]シリーズを元にして書いています

 


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「なるほどくーん?」

後ろから声を掛けられてぼくは足を止めた。
……そんなはずはない、彼女は今日裁判所に行くと言っていたはず。
今朝聞いた彼女の予定を一つ一つ頭の中で思い返しながら、ぼくはゆっくりと振り返る。
そこにはぼくの所長である綾里千尋さんが書類を胸に抱え廊下に立っていた。
恐る恐る振り返ったぼくを首を傾げて見つめる。
彼女と目が合った瞬間、身体中の毛穴から汗が噴出したような気がした。

「ち、千尋さん!今日は裁判所に行ったんじゃなかったんですか?」
「ええ。その前に刑事さんにお話を伺いたくてね」

少々どもってしまったぼくの質問に彼女は整った顔でにっこりと微笑んだ。
ぼくはぎこちなく笑みを返す。






なぜなら……
今日は友人でもあり、検事でもある御剣怜侍と会う約束を交わしていたのだ。
そう、まさにこの場所で。
ぼくは焦る心を抑え付けて、表情を笑顔に形作って千尋さんに向き合う。
腕にしている時計が気になる。時計の針はもうすぐ、御剣との待ち合わせ時間を指し示す。
几帳面な彼のことだ、時間通りにやってくるのだろう。
何とか会話を切り上げて、この場から彼女を去らせないと。

(別に検事の友達がいたからって、そんなに慌てることもないんだけど……)

御剣はちょっとだけ有名人だ。
裏取引や証拠のでっち上げ。偽証させるという噂まである、黒い検事───

今はさすがにそんなことはしないらしいが、そんな彼との付き合いをぼくの師匠でもある
千尋さんはあまり快く思わないだろう。

「なるほどくんこそ、警察署で何してるの?」
「ええと、ぼくもちょっと事件のことで…」

ぼくの様子に全然気がつかない様子で千尋さんは会話を始めた。
しかしぐるぐると無駄に泳ぐぼくの黒目に目ざとく気付いたのか、唇の端をちょっとだけあげた。
次に声を潜め、ぼくの耳元でそっと囁く。

「むやみにこんなところうろつかない方がいいわよ」
「え、何でですか?」

いきなり忠告され、目を丸くしたぼくを千尋さんは茶色い目で見つめ返す。

「刑事にとって弁護士は罪深い被告を難癖つけて救う立場、だからね」
「ええっ…でも…」
「特にあなたみたいな新人弁護士なんて、ぼろぼろにされるわよ」
「!……そ、そんな…」

凄むようにそう言われ、思わず声が震えた。縋るような思いで千尋さんの顔を見つめる。
怖いことを告げ、思い切りぼくを怯えさせたのにもかかわらず千尋さんは楽しそうに微笑んだ。
その様子にぼくはやっと自分がからかわれていることに気がついた。

「所長……ぼくに嘘を教えないでください」
「あら。嘘なんていう証拠はあるの?弁護士なら証拠を提出してみなさい」

逆らう言葉はすぐに返されてしまう。
千尋さんはいつだって正しくて、こうやってぼくはすぐにやりこめられてしまう。
言葉が見つからず、口を閉じて非難めいた目で睨んでみても、千尋さんには何の効力もないようだ。
ふふ、と余裕の笑みを返されてぼくはがっくりと肩を落とした。

(この人は、ぼくをからかって喜んでいるんだろうか……)

「用事は済んだの?」
「えっ、は、はい、まぁ……」
「じゃあ、これからあなたも裁判所にいらっしゃい。早く本番に慣れておかないとね」

目を思い切り見開いて後ずさったぼくを千尋さんは驚いて見返した。

「どうしたの?」
「い、いえ…」

汗が背中を伝う。
別に、誰とは言わなければ正直に人と待ち合わせていると言ったらいいんだけど。
……どうやらぼくは所長に隠し事が出来ない体質らしい。
焦って、彼女の顔から視線を外した瞬間。
千尋さんの肩越しに近づいてくる人影に気がついた。

(!!!!!!)

目が合うと、彼は少しだけ表情を和らげる。

「ち、千尋さん!トイレどこですか!!」
「え…確かあっちよ」

いきなりくわっと吠えたぼくに怯みながら、千尋さんが振り返りトイレを指し示そうとした。
動こうとした彼女の肩を掴み、自分自身を移動させて後ずさる。
そして急いで姿勢を反転させた。

「ぼく、トイレ行ってきます!」

そう吐き捨てた後、全力疾走をして御剣の元に向かう。
久しぶりに会う彼は、相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべてぼくの到着を待っていた。
肩で息をするぼくの様子に御剣が不審そうに眉をひそめる。

「どうした、成歩堂」
「み、御剣!トイレ行こう、トイレ!」
「…?何を……」

全く状況を飲み込めない、といった様子の御剣はさらに眉をひそめた。
けれども今は詳細を説明している暇はない。

「いいから!行って!」

ぼくは背中をぐいぐい押して近くにあったトイレへと御剣を押し込んだ。
ほっと息と付いたのもつかの間。

「なるほどくん?」
「わあ!!」

いつの間にか背後に千尋さんが立っていた。
悲鳴を上げて飛びのいたぼくを見て首を傾げる。そして眉を寄せて問い掛ける。

「何?今の人、誰?」
「いやいやいや……あ、あの、トイレの場所聞かれて…」
「あなたも行くんじゃなかったの?」
「はい!今から行きます!」

くるりと姿勢を反転させ、トイレに駆け込もうとした瞬間。
背後に立っていた人物に思いっきりぶつかってしまった。
慌てたぼくは相手の顔も見ずに頭を下げて謝る。

「す、すみませ…」
「何事だ、成歩堂」
「!!」

見たことのない、ものすごく不機嫌な顔をした御剣がそこに立っていた。
その射る様な視線に怯みつつ、側に立つ千尋さんの様子を窺う。
千尋さんはきょとんとした表情で険しい顔の御剣を見つめていた。

「み…い、いや、検事さん…」

咄嗟に彼の名前を呼ぶのをやめた。眉をさらに曲げ、御剣が黙った。

「ケンジ?」

千尋さんがぼくの背後から顔を出して問い掛けた。
御剣が彼女を見る。そして眉をしかめながらひとつ、瞬きをした。
その様子にぼくは、目の前が真っ暗になる。

(…………も、もうだめだ)

「あなた、検事なの?」

声色も特に変わらない千尋さんを驚いて振り返った。
彼女は彼が、噂の御剣検事だとは思っていないようだ。

(そういえば、直接会った事はないって言ってたような……)

奇跡的な幸運にほっと胸をなでおろし、御剣を見る。
しかし次の瞬間、彼の表情で再び背筋が凍る。
彼はこの女性が綾里千尋弁護士だと気がついたらしい。
固い表情でゆっくりとぼくを見た御剣に何度も顔を振り、何とか意思を伝えようとする。

「いかにも検事だが……」

ため息混じりに御剣が頷いた。
千尋さんはその答えにいぶかしむ様な表情を崩し、穏やかに微笑んだ。

「なるほどくんのお友達?修習所で知り合ったのかしら」
「ええ、まぁ」

当たり障りのない会話を交わす二人の間に立たされ、ぼくは気が気じゃない。
御剣の正体に千尋さんがいつ気付くのかと、汗を大量に流しながら二人を見守っていた。

「お忙しいのでは?」

そんなぼくの心情を読み取ったのか、御剣がさりげなく千尋さんの抱えていた書類を指差した。
千尋さんはその先を確かめるようにして俯くと、唇を歪めて苦笑した。

「ええ。ある事件の証拠品がどうもしっくりこなくて。刑事さんに聞きに来たの」
「でもその証拠品は警察からちゃんと受け取ったものじゃないんですか?」

その千尋さんの暗い口調に、ぼくは思わず口を挟んでしまった。
千尋さんは表情を少しだけ緩めてぼくに微笑みかける。

「なるほどくん。信じることは大切だけれど、何が真実かを見極めるのは自分自身よ」

───依頼人を信じることが、弁護士である私たちの仕事。

千尋さんはそうぼくに教えてくれた。けれどもその信念だけでは、無罪判決は勝ち取れない。
彼女と共に法廷に立つことによってぼくは様々な現実を知ることができた。
数年前から設置された序審法廷の制度により、大抵の審理は有罪判決で終わることが多かった。
検察側は時間短縮のためという理由で判決を急ぐのが常だ。
偽の証拠品、証言操作。……信じられないことだけど、そういうことが横行しているのが現実だった。
その度に千尋さんは真実を明かし、逆転無罪を勝ち取ってきた。
目の前に並べられた証拠品、法廷記録、証人。その全ては信じられるものなのかそうでないのか。
依頼人の証言でさえ疑わなければならない状況だってある。
信じるという弁護士の信念とはどうしても矛盾してしまうことを、千尋さんは悲しんでいるのだ。
千尋さんは淋しげに目を伏せる。そして。

「検察側のように、何もかもを疑うなんてことはしたくないけれど」

眉間にしわを寄せて、不快感を露わに千尋さんは呟いた。
しかしそのすぐ後、正面に立つ御剣の存在を思い出したのかはっと我に返った。
今度は申し訳なさそうに眉を下げると、無表情のまま立つ御剣へと声を掛ける。

「ごめんなさい。……言い過ぎたわ」
「いえ。人を信じるのではなく、疑うことは私にとって当たり前のことです。
 何もかもを無条件に信じるという方が愚かしいだろう」

さらりと言う御剣のその言葉にぼくは思わず目を瞠る。
今まで友人としてしかお互いを知らないぼくは、御剣の一体何を知っていると言えるんだろう?
と同時に。
ぼくたちがどんなに親しくなろうとも、お互いに決して相容れることのない立場に立っているのだと、
今更ながら自覚した。

───
彼は一体今まで、どれだけの冤罪を生み出してきたんだろうか?

頭の中に浮かび上がった疑問がぼくの背筋を凍らせる。
……そんなことは怖くて、とても聞けない。

「そういえば……御剣検事ってご存知?」

ふいに千尋さんの口から出た言葉にぼくは飛び上がった。
微かに眉をひそめた御剣を気にもかけずに千尋さんは言葉を続けた。

「有罪判決を獲得するためにはなんでもする冷酷な検事、と新聞で読んだのだけど。
 彼のような検事がいるおかげで冤罪が生まれるのね」
「………………」

手を口元にあて、千尋さんは言い切った。
彼女は正義感がとても強い人だ。日頃から御剣の悪行を新聞で読んではとても渋い顔をしていた。

「千尋さ…」
「私はそんな人間、検事だと認めないわ。法廷に立つ資格なんてないわね」

言葉を遮ろうとしたぼくの試みは見事に失敗し、千尋さんはきっぱりと言い切った。
おろおろするしか出来ないぼくを無視して御剣は口を開いた。

「では………被告が嘘をついていないなんて、あなたにはわかるのか?」

御剣の質問に千尋さんは露骨に眉をしかめた。
ぼくは思わず言葉を失う。そして御剣の顔を見つめた。
御剣の表情は驚くほど固く、いつも穏やかに会話していた彼からは想像できないような冷たい瞳をしていた。

「罪を逃れるためならば、彼らはどんな嘘だってつく。見分けることなんてできない」

睨みつけるように御剣は正面を見た。冷徹な瞳にぼくは何も言うことができなかった。
こんな彼の目は初めてだ。犯罪を…そしてそれを弁護する、弁護士をも憎む顔。

「私にできることは一つ。被告人を、すべて有罪にする。それが私のルールだ」

どんな手を使ってもな、と御剣は小さな声で付け足した。
言葉を失ったぼくと千尋さんを彼は一瞥して笑った。ぼくたち二人を嘲る様に。

「検事が卑怯な手を使っていることを知ってても、冤罪の被告を助けることができない。
  それはあなたのような無能な弁護士がいるからだろう?」
「!それは…」
「異常だよ。君は間違っている」

口から咄嗟に出たのは、御剣を非難する言葉。ぼくは正直な気持ちを隠すことが出来なかった。
咎める様な視線を彼に送ってしまった後、ぼくは我に返る。
御剣は口を閉じてぼくを見返した。何の感情のない瞳に見つめられ、息が詰まる。

「……失礼。言葉が過ぎた様だ」

軽く会釈した後、彼は足早にその場を去った。
千尋さんもその言葉で我に返り、開廷時間まで間もないことに気付いたようだ。

「じゃあ私、行くわね」

短い言葉を残し、慌てた様子で駆け出す。
ぼくは彼女が警察署から出ていったのを確認すると、自分も走って彼の背中を追いかけた。












 










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