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※この話は絵本[あらしのよるに]シリーズを元にして書いています

 


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『……あ、御剣?今大丈夫か?……うん、ああ、そうだよな。ごめんごめん。
  ……いや、別に用はないんだけどさ。いやいや、いいよ。うん。……じゃあ、また』

いつもと変わらない成歩堂の声に違和感を感じたのは、ほんの一瞬の間だけだった。
そのまま気のせいだと思い、簡潔に会話を切り上げようとした寸前。
私は咄嗟に彼の名を呼び、通話が切れることを阻んだ。








「大変ッス!御剣検事!」

大きな身体を揺らして糸鋸刑事が駆け寄ってきた。
手にしていたカップの中の小さな水面が彼の足音に反応し、微かに揺れ動く様を見つめ
私はため息をつく。

「何だ」

彼の小さな事件でも大げさに報告をする癖を知っている私は一瞥もせず言葉だけ返した。
今の糸鋸刑事には私の機嫌をうかがう余裕がないらしい。
彼は私のデスクの前に到着すると、加減もせずにもう一度私の名を叫んだ。

「殺人事件ッス!大変ッス!」
「……さっさと用件を話したまえ」

声のトーンが下がったのはわざとではない。
苛つく心を静めようと努めた結果、口調にまで気が回らなかったのだ。
しかし、私の物言いに怯むことなく糸鋸刑事は大変ッス!ともう一度付け加えた。
そして彼は驚くべき事実を口にする。

「綾里千尋弁護士が殺害されたッス!」





9月5日、午後9時。ある法律事務所で弁護士が殺害された。
被害者の名前は綾里千尋。現場となった事務所の所長である。
その場で緊急逮捕されたのは被害者の実の妹、綾里真宵・17歳。
被告の弁護を担当するのは被害者の元で働いていた成歩堂龍一弁護士。
彼は、私の友人でもある。





「私が、ですか?」

受け取った電話は検事局長からのものだった。私は思わず聞き返す。

『……今回の事件は大きなものでな。君はただいつものように被告を有罪にすればいい』

淡々と、けれども重苦しい語調で検事局長は私にそう命令した。

───しかし、犯人は)

言いかけた言葉を寸前で飲み込んだ。そして私はその言葉に答える。

「……はい。わかっております。必ず、有罪にしてみせます」

それはいつもの言いなれた台詞。───被告を全て有罪に。
呪いのように15年間繰り返してきたものだ。

(まさかこんなに早く君と法廷で会うとはな……)

受話器を置き一人唇を噛む。
私は検事だ。私にできることはただひとつ。有罪判決を勝ち取ること。
たとえ冤罪であっても、真犯人が他にいても。
弁護人が、大切な友人だったとしても……?





ふと顔を上げ、壁にかかった時計へと視線を移す。
確か彼と会話したのは午後一時を少し過ぎたくらいだろうか。私は自分の迂闊さに思わず小さく舌打ちをする。
事件を知らなかったとはいえ、彼を私の元に呼び出すなんてどうかしている。
弁護士という相反する立場の男を検事局に呼び出すなど。
先程とは異なる個人の携帯電話を胸ポケットから取り出す。
履歴を辿り、通話ボタンに親指を重ねたその時、荒い足音をたてて一人の刑事がやってきた。
私は耳元に当てていた携帯電話を咄嗟に手のひらできつく握り、鋭い視線を彼に向ける。

「御剣検事!成歩堂龍一という弁護士を知っているッスか?」

私のデスクの横に到着すると同時に糸鋸刑事は声を張り上げて質問を口にした。
聞きなれた近しい名前が突然呼び出され、私は小さく息を飲んだ。
相手に悟られないように落ち着いた声で答える。

「いや。聞いたこともない名前だな」
「綾里弁護士の事件を担当する弁護士らしいッスが……」

突然、糸鋸刑事の語尾が下がる。私は嫌な予感に眉をひそめた。
その様子に彼は自分が急かされた様に感じたのか、慌てた様子で言葉を続けた。

「署長が言っていたッス。コナカ氏が必死にその弁護士を探しているって」
「何?」

短く、鋭い問い掛けに糸鋸刑事の大きな身体がびくりと揺れた。
私は鋭い視線を崩すことなく彼を睨みつけた。
その視線に怯えながらも彼は今の捜査状況を語りだした。

今回の事件はコナカルチャーの小中氏が関与しているということ。
そして今回の被害者、綾里弁護士は小中氏の身辺を探っていたらしいということ。
小中氏はそれが世間に出ることを危惧している。
その情報がひとつでも残らぬよう、様々な手を尽くして綾里弁護士の身辺を探っていること。

「現場検証というのは建前だけで……ほとんど家捜しと言っても間違いないッス」

先程まで現場である綾里法律事務所にいた糸鋸刑事は苦々しい表情で呟いた。
───小中大。その名を知らない者はいないだろう。
探偵業と銘打ちながら、裏で恐喝を繰り返し様々な社会の人々の立場を操る男。

「ただ……そこの事務所で働いてる弁護士の姿が見えなかったッス」

ひやりと、背筋に何か冷たいものが触れた気がした。

「その弁護士が何か知っていて、警察からも逃げてるんじゃないかっていう噂ッス」

糸鋸刑事は私の様子に気付かないまま警察の、しかも一部の警官にしか
知らされていないだろう今現在の状況を私に告げた。
私は冷静な表情を装いつつ頭の中でその事実を整理し組み立てていく。
そして、行き着いたひとつの結論は。

「……彼もまた口止めのために殺害されると?」

零れ落ちた自分の声は驚くほど感情がなかった。

「御剣検事!」

糸鋸刑事は驚いて声を張り上げた。そして声を潜めて首を振った。

「そんなこと言ったらダメッス!……コナカ氏は、被告人じゃないッスよ」

そう言った彼の表情は明るいものではなかった。
警官である彼もまた気が付いているのだろう。
本当に罪を犯したのは誰なのか───そしてこれから行われる裁判が、茶番でしかない事を。
しかし、警察が被疑者を逮捕し検察が起訴した今。
私たちは被告人が罪を犯したという証拠品を見つけ、法廷でそれを立証しなければならないのだ。
突然訪れた皮肉で残酷な運命に私は何も言う事が出来なかった。

泳がした視線の先に、映ったのは壁の時計。
先程見たときよりほんの少し針が進んでいた。

「………すまないが、これから約束が」

そうだ。
自分で言って気付く。
そうなのだ、私は彼と約束をしているのだ。
大切な友人とこの場所で。
今一番重要な鍵を握っているとされる弁護士と、この検事局で。

「糸鋸刑事」
「はいッス!」

突然鋭い声で名前を呼ばれ、糸鋸刑事は飛び上がった。

「これから留守にする。もしも、私を訪ねる客が来たら……早急に連絡してくれ」

糸鋸刑事が了解ッス!という返事をした時にはもうすでに、私は席を立っていた。
祈るような思いで携帯電話を耳に当てる。彼の番号をディスプレイに呼び出した携帯を。
どうか彼の声がその場所から流れてきますように、と。

(成歩堂───

しかし。
何度か接続を試みるが、空間は繋がらない。

やがてそれは彼の声ではなく機械的なアナウンスの声を吐き出した。
忌々しい思いでボタンを押しそれを消す。

(成歩堂……)

口には出さず心の中でもう一度彼を呼ぶ。
私との約束を守るため、この場所に向かっているだろう彼のことを。

私は廊下に出た後、足早に歩き出した。
彼を見つけなくては。彼の身が危険に晒される前に。









「あれ」

自分の声は馬鹿みたいに気が抜けたものだった。
ぼくは立ち止まり首を捻る。検事局は思ったよりも広い。
このまま野生の勘で前に進むのもよかったけど、そんなことをしていたら御剣との
約束の時間に確実に遅れてしまう。
野生の勘にだけ頼った結果、迷いに迷ってぼくはようやくその事実に気が付いたのだった。

検事局に来たのは今日が初めてだ。
弁護士であるぼくが検事の本拠地であるこの場所に来るなんてそうそうない。
辺りをきょろきょろと見回して館内の地図を探す。
そんなぼくの横を同じスーツの人々が何人も通り過ぎていった。
きっと検事の人たちなんだろう……そう思った途端、ほぼ無意識に背筋が伸びる。
別に、ぼくが弁護士だからといっても食われるわけじゃないだろうけど。
仕事の上では完全なライバルだ。
その弁護士がこんな場所に一人のこのこ来るなんて、もしかしてとても危険なことなのかもしれない。
危険とまではいかないけれど、あまり懸命なことではないのかもしれない。
御剣はさっきの電話で大丈夫だと言っていたけれど。私が君を守るから、と。

(何の根拠があってそう言ってたんだろ、あいつ……)

ぼーっとしてる内に、ある一人の言葉が頭によみがえってきた。
ぼくみたいな新人弁護士はぼろぼろにされちゃうわよ?と笑いながら言っていた彼女。
その時の様子を思い出し、思わず笑みが零れた。
それが栓を外したように次々とその人の姿が脳裏に浮かんできた。
綺麗に微笑む顔、眉を吊り上げて怒る顔、いつも法廷で見ていた真剣な横顔。

(……ああ、もっと)

くるくると動き回る彼女の表情を追いながら、ぼくはぼんやりと思う。
浮かべていた笑みは次第に虚しいものへと変わる。思い出すだけで胸が痛んだ。

(もっと、千尋さんに色々聞いておけばよかったな)

しておけばよかったな、という後悔の呟きになるのは、ぼくの師匠である千尋さんは
もうこの世にいないからだ。
彼女は昨日、自分の事務所で殺されてしまった。
ぼくと彼女が毎日を過ごしていたあの場所で。たった一人冷たくなって。

───ううん、それは違う。

ぼくは俯いて自分の手のひらを見た。
それはいつもと変わりがなかったけれど、たった一つ違うことは。
死んでいく人の体温を知ってしまった。
失われていく生と温度に怯えつつ、ぼくはこの手に彼女の身体を抱いてその死を看取った。

(どうして……)

どうして助けられなかったんだろう。ぼくは何度も繰り返していた疑問をまた繰り返した。
どうして逝かせてしまったんだろう。もっともっと、色々なことを聞いて習って話して笑って。
今の先には、そういう未来があったはずなのに。

ぼくはその場に立ち尽くしたまま、その手のひらを握り締め自分の額にきつく当てて。
心の中で誰に向かってする訳でもなく懺悔する。
激しい後悔と自己嫌悪に苛まれていたぼくは、自分の携帯電話を自宅に忘れてきたことにも、
御剣が必死にぼくの姿を探していることにも、全く気付くことが出来なかった。








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