車の中で自分の肩が濡れていることに気が付いた。
隣に座る彼の肩もほんの少しだが濡れている。外では小雨が降っていたらしい。
青くきらきらと光る成歩堂のスーツが車の後ろの方向へと動く。
後を追ってくる人間がいないか確認をした後、また元に戻った。安堵の息を吐き出しながら。
勢いよく流れ始めた窓の外の景色を、成歩堂が目で追ってるのを視界の端で感じた。
しばらく眺め、戸惑いがちに私へと問い掛けてくる。
「どこへ行くんだ?」
「とりあえず……駅のある方向へと」
目的地を告げようにも目的地がないのだ。駅を指定したのは全くの思い付きだった。
一体どこへ───どこへ向かえばいい?
被告人と検事が留置所から共に逃げ出すなど前代未聞の出来事であろう。
しかも被告人は弁護士でもある。今頃、一体何を言われているのか。
自慢ではないが、私は検察局の中にも警察局の中にも敵が多い。
才能を妬んでか何かと目の敵にされることが多いのだ。
私たちにやましい所などひとつもなくとも、こうなってしまったらもうあらぬ噂は防ぎようがない。
降りしきる雨がワイパーによって綺麗に除けられていく。まるで私たち二人を避けていくように。
雨が車体にぶつかる。その音は少しも途切れることなく、私の耳を激しく叩く。私と彼を咎めるように。
永遠かと思われる沈黙と絶望を破ったのは成歩堂だった。
「留置所に戻ろう」
目的地を告げた成歩堂の言葉に耳を疑った。
ついさっき、逃げたばかりの場所に自ら戻るなどと。一体何をしようとするのか。
カチカチと方向指示器の音が鳴った後に車は路肩へと寄った。
車を停止させ、エンジンを切ると成歩堂を振り返る。
成歩堂は静かな瞳で私を見返していた。
不思議に光るその瞳に心がすっと落ち着きを取り戻す。自分の隣に彼がいる。
それだけで私の心は安堵する。
「御剣。このまま逃げても何も変わらないよ。真犯人と向き合おう」
私の視線が自分に落ち着くのを待って成歩堂はそう告げた。
「このまま逃げてもぼくは被告人のままだ。君だって、このままじゃぼくに手を貸したと思われてしまう」
成歩堂の言葉には戸惑いも躊躇もない。真っ直ぐに私に、真実に向かう。
この瞳は以前にも見た。
綾里真宵を弁護するのかと私が聞いた時、彼は彼女の無罪を信じると答えた。
その時の瞳だ。弁護士を感じさせる、強く激しく燃える目。
「真実を明らかにすれば、君もぼくも何も咎められることはないんだ」
何にも恐れることも、誰からも隠れることなく。
きっと二人でいられる場所が開くはずだ。この裁判が終わった後に必ず。───必ず。
成歩堂はそこで表情を作り変えた。
弁護士の顔を捨て、浮かんでいたふてぶてしい笑いも消える。
私の目の前で彼はただの一人の男となった。友人に見せる柔らかな笑顔。
それを見るうちに私の心情も変化していくのがわかる。
検察局長の命令が脳裏に蘇った。
君はいつも通りに法廷に立てばいい。君は君の仕事をすればいいだけだ。
どんな状況でも、被告人を必ず有罪に──…
糸鋸刑事。小中大。検察局長に警察局長。全ての人々が向かい風となって私たちの目指す道を阻むだろう。
検察局全体が敵になり、私たちを囲むだろう。私と彼は強大な吹雪の中をたった二人きりで進むこととなる。
それでも私は躊躇わないのだ。彼の言葉に大きく頷いてみせるのだ。
「ああ」
短く答えた私に成歩堂はもう一度笑った。
「ああ。行こう、成歩堂」
私は同じ言葉をもう一度繰り返す。彼に答えるために、自分の決意をさらに固くするために。
そして心の中である誓いを立てた。
──君とならば、どんな山だって越えてみせる。
それは君との未来のために。
黒い目を細めて笑う成歩堂を見つめ私は決意をさらに強くする。
未来を感じさせるこの笑みに、絶望を感じている暇などないのだ。
私たちはある場所を目指してまた動き出す。留置所の前へと到着し、車は静かに停止する。
気が付けば雨は上がっていた。
細かい雲の隙間から日の光が少しだけ覗いているのが、車の中からでも見ることが出来た。
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次の日。私と成歩堂は揃って法廷に立った。
彼は弁護人席。私は検事席と、それぞれ場所は異なる。
真正面から瞳が合うこの位置は緊張感を生むと同時に安堵感を生む。
そんな風に感じるのは初めてのことだ。
今から激しい弁論を繰り広げるだろう弁護士を信頼しているなど。
真実の向こうに見える未来を、必ず手に入れてみせる。
相対する場所で、彼と私は同じ決意を胸に秘める。
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