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※この話は絵本[あらしのよるに]シリーズを元にして書いています

 


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次にぼくが呼ばれたのは数時間後のことだった。
しかし先程とは状況が異なった。
面会室ではなく取調室に連れて行かれた。
そして、そこにいたのは先程の黒髪の少女ではなかった。
ぼくが誰よりも信頼している彼の姿だった。
いや、誰よりも信頼していた、御剣検事の姿だった。









弁護人であると同時に被告人となったぼくを御剣は無言で見つめた。
その目には今までと明らかに違う色が見える。
憎しみと嫌悪感。それと……疑念?
それが被告人に対してのものなのか、弁護士に対してのものなのか、
それともぼく自身に向けられたものなのか。ぼくにはよくわからない。
机を挟んで、向き合って座るぼくたちに会話はなかった。
二人のほかに、部屋に人はいない。御剣が全て退席させてしまった。
とはいってもこの場所は留置所の内部であって、その中の一部屋に過ぎない。
きっと二人の会話は二人だけのものではないだろう。どこかから監視されているに違いない。
しばらくして御剣がようやく口を開く。

「………何か言え、成歩堂」
「御剣こそ」

ぼくが短く返すと御剣はふっと頬を緩める。

「苦手なんだ、世間話」

それはいつもぼくたちが交わしていたような何気ない会話だったのに。
ぼくは小さく笑った。しかしそれはすぐに乾いたものになり、頬から滑りて二人の間に落ちる。
もう一度笑おうとしたけどできなかった。
お互いに向き合ったまま数分間が過ぎ、重苦しい沈黙が流れる。
多分、御剣も感じているのだろう。
ぼくたちの間にどうしようもない距離ができていることを。


御剣に対して疑心を抱き始めたのは、真宵ちゃんの言葉だけが原因というわけではない。
彼と知り合ってから……あの嵐の夜の次の日に、お互いの正体を知ったあの時から。
自分の中にあった御剣に対する不信感が今になって芽吹いたのだ。
全てを有罪に運ぼうとする彼の手口を実際に目の当たりにし、こうして被告人となり
自分で対面することでぼくはそれを強めた。
御剣も同様なのだと思う。
人を疑うことを仕事と言っていた彼だ、被告として捕らえられたぼくを今でも信じ続けているはずがない。
それに関して彼を責めるつもりなどなかった。最初から御剣は検事だったのだから。

御剣の目の前には薄っぺらい調書が置かれていた。
すでに目を通してあるのか、御剣はそれに触ろうともしない。
きっとそこには有りもしないことが事実として書かれているのだろう。
ぼくは千尋さんを殺害したという嘘が、事実としてそこに。
無言の御剣は同じく無言のぼくをじっと見つめていた。
それはぼくを確実に有罪に陥れるシナリオを練っているようにも見えた。
供述を都合のいいように書き換えられる可能性を考えていたぼくは、無言のまま席を立とうとした。
これ以上ここにいても何も生み出さない。
立ち上がる。と、同時に。

地面が激しく揺れた。

ぼくははっと息を飲んで天を仰いだ。
建物が軋んで苦しげな音を立てる。足元が不安定に揺らぐ。
どこにも逃れることのできない恐怖。身体だけではなく自分の全てが揺らいで崩壊してしまうような。

(地震──!)

突然の出来事に混乱した頭にその二文字が浮かび上がった。
次にぼくは弾かれたように御剣を見た。
彼は叫び声を抑えるようにして自分の口元を手で覆い、前屈みで揺れに耐えている。
机にしがみ付く指先が、血の色を失い白く光る。白く白く、小さく震えている。
それを見た瞬間、ぼくの中から恐怖は消えた。

「御剣!」

がくりと御剣の膝が力なく崩れた。
ぼくは立ち上がって彼の元に駆け寄る。
本当にすぐ近くの距離なのにそれがなぜかとても遠く、もどかしく感じた。
邪魔な椅子を腕で雑に押し退けて、もう片方の手を伸ばす。
赤い布に自分の指先が触れる。やっとで掴んだ右腕を思い切り自分の方に引き寄せた。

「な──

彼が呟いたそれは、自分の名前の一部だったんだろうか?
膝を床に付いた状態でぼくは御剣の右手を思い切り握り締めていた。御剣が揺らがないように強く強く強く。
身体の一部分が、指先が温かくなる。彼の体温が自分に移る。自分の体温が彼に移る。
揺れにより地面が頼りない世界。その中でぼくは御剣の手をずっと握り締めていた。御剣もまた握り返してきた。

人の嘘のない温かみは混乱や不安を沈める。ゆっくりと胸を浸し始める安堵感。
混乱は遠のき、確実に薄れていく。冷静になれる。自分に世界が戻ってくる。

気がつけば、長い息が自分の喉から吐き出されていた。
御剣を見る。御剣の瞳も落ち着いてきたようだった。
不安の色は消え去らないもののしっかりとぼくを見返してきた。
二人の精神が落ち着いたのと時間の経過を読み取ったように地震の揺れも治まってきた。
その間にぼくは、ある奇妙な記憶を脳内に蘇らせていた。

前もこれと似たようなことがあったこと。
突然足元が揺れ、不安になった時。自分と一緒にいた男がとても怯えていたということ。
それを見て、その男の恐怖を取り払ってやりたいと強く思ったこと。
無意識に手を掴んでしまったこと。その手が何よりも温かかったこと。
その後不器用なやりとりを何度か交わし、彼が自分にとって大切な存在になったということ。
そして、今もかけがえのない友人として自分の近くにいること。

それら全てを思い出した。

「成歩堂」

御剣がぼくを呼んだ。
その声に距離はない。御剣がぼくを以前と変わらぬ目で見たことにほっと心が安堵する。
何もかもが正反対のはずなのに、ぼくたちはきっとどこかが似すぎているのだと思う。
ぼくが彼に対して猜疑心を持っていたのと同じように御剣もまたぼくを疑っていた。
でもそれは繋いだ手の温度に流れてしまっていた。

「ごめん……御剣」
「いや、謝ることはない」

短い言葉の会話で二人の間のわだかまりは完全に消える。
地震も終わり相手に対する疑念が消え、事態が落ち着いてくると今の自分たちの状態がおかしく思えてきた。
大人の男が二人、床に座り込んでお互いの手を強く握り締め、顔を寄せ合っているこの状態が。

「……もう大丈夫だ」

穏やかに微笑んでいたはずの御剣が自分から手を離してぶっきらぼうに言う。
お互いが我に返った後。ぼくたちはまたお互いに黙り込んでしまう。
ぼくたちが和解したとしても大きな問題は何ひとつ解決していない。

「ここに来る前、検事局長に呼ばれたのだ。小中大氏が語ることは絶対だと言われた」

ぽつりと、御剣が告白した。俯いて自分の髪で自分の顔を隠すようにして。
小中大。コナカルチャーの社長。ぼくが犯人と嘘をついて逮捕させた男。
おそらくは……いや、確実に。千尋さんを殺した真犯人。
星影弁護士だけではなく、検事局長までもを脅しているのか───

「君が彼の証言に対してどんな攻撃をしようと、私が異議を唱えれば裁判長は必ず聞き入れるだろう、と」
「……つまり、ぼくの有罪はもう決まってるというわけだ」

御剣は頷いてぼくの言葉を肯定した。ぼくの目を見ないまま。
自分自身を責める様に右手で自分の左腕を掴み、悔しげに唇を噛む。

「私の部下にも君とのことが知られてしまった。いや、私たちにやましいところなどひとつもない。
 それはわかってはいるが……」

今度はぼくが頷いて御剣の言葉を肯定した。
弁護士のぼくと、検事の御剣の関係に疑問を持つ人々もいるだろう。それは御剣のせいではない。
御剣の発言により、ぼくは事態がさらに悪くなっているのを知った。
このまま行けばぼくは有罪になり死刑。御剣は完璧な冤罪を生み出すことになる。
千尋さんが死んでからというものの、一度も止まることなく物の見事に転落していく状況にもう憤る気力すらない。
床に両足を投げ出し手を後ろについて、思わず大きく溜め息をついてしまう。

「もう秘密の友達じゃなくなっちゃったね」

ぼくがそう言うと御剣は目を逸らしたまま笑った。少し淋しそうに、そしてとても苦しそうに。

「これからどうしようか?」
「そうだな……」
「ぼくを有罪にするっていう手もあるけど?」
「それができたらよいのだが」

軽い口調で問い掛けると御剣はまた少し笑った。今まで通りのぼくに見せてきた優しい笑顔。
ぼくはそれに後押しをしてもらって立ち上がる。
御剣が突然動いたぼくの影に驚いて顔を上げる。
座り込んだままの御剣に、にっと笑顔を返してぼくは右手を差し出した。

「ここまできたら、いくところまでいってみようか」

御剣は目を丸くしてぼくの顔と差し出された手を見比べた。
ぼくは、ふてぶてしいのとはまた別の笑顔で御剣に笑いかけた。
今だけでも結構ピンチだけれど、まだ大丈夫だ。
なぜなら、ぼくにはまだ御剣がいるから。


















ざわざわと周囲を取り巻く、喧騒。御剣の後に続いてぼくは取調室を出た。
外に待機していた刑事が何事かと御剣を振り返った。
その中でも特に身体の大きな刑事が一人、慌ててぼくたちの元に駆け寄る。
確か法廷でも証言をした刑事だ。糸鋸刑事は二人並んで立つぼくたちに相当驚いたらしい。

「御剣検事!どこ行くッスか?」
「今から被告人を連れて現場検証をしてくる。君たちはこの場で待機していてくれ」

落ち着き払った御剣の指示とは逆に、糸鋸刑事はさらに焦ったみたいだ。
さっさと歩き出そうとする御剣と、それについて行こうとするぼくの進路に身体を割り込ませて防ごうとする。

「自分も行くッス!二人だけなんてそんなのダメッスよ!」

大きな混乱の声に周囲の人々の視線が集まり出した。
ぼくと、共にいる御剣の姿に不審げなざわめきも生まれ出す。
糸鋸刑事はダメッス!と何度も繰り返してその場を動こうとしなかった。
視線だけでなく、次第に人も集まり出した。このままでは留置所から出れなくなってしまう。
不安になったぼくは隣にいる御剣を見ようとした。でも、それよりも早く。

「成歩堂」

御剣がぼくの腕を取った。
力強く引き寄せられ、よろめいたぼくの耳に御剣がぽつりと囁いた。
瞬間的に御剣を見返す。
ぼくの声にならない問い掛けに御剣は微かに頷く。そして真正面から瞳を合せてこう告げた。

「……逃げるぞ、成歩堂」

その言葉に一瞬、戸惑った後。
ぼくは頷く。───覚悟なんてもう、とっくに決めていたから。





御剣とぼくは同時に駆け出した。しがらみに囚われた留置所の中から逃げ出すように。
誰かの呼び止める声が耳を叩いた。でも全部無視した。
全ての者に監視されているような気がした。それを振り切るように外へと向かった。
御剣の導きで駐車場へと降りた。 早く、外へ逃れたかった。
景色の中に溶け込まない、原色の赤い色の車の中に
ぼくは迷いもしないで乗り込んだ。

「早く……!」

急かしたぼくの言葉に御剣は答えない。
留置所の前にある道路を何台もの車が勢いよく通り過ぎていた。
まるで濁流の様に激しく流れる車たちに、一瞬怯みながらも。
御剣はアクセルを踏む。



そしてぼくたちはその車の流れの中に、自ら飛び込んだ。



 










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