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数分おきに携帯電話を掴み連絡をとろうと試みたが、成歩堂と通話が繋がることは一度もなかった。
私はイライラと組んだ腕の上に乗せた人差し指を動かす。
彼は一体どこにいるのだろう。
間違いなくこの建物の中に存在しているだろうに、その姿は全く見つけることができなかった。
先程の部屋に戻った方がいいのかもしれない。このまますれ違いになるのならば。
そう考え、歩み掛けた後。すぐに足を止める。
あの部屋には検察官が多数いる。検察官だけではない、刑事も検察事務官も。

あの中で成歩堂がもし、自分の名を明かしたら。
弁護士である彼が私という検事を訪ねてきたら……?

糸鋸刑事から聞いた話が思い出され、思わずぞっとする。
小中氏の圧力は検事局全体に及んでいる。トップの検事局長でさえ彼の肩を持つほどに。
詳しい事情を知っている者が彼の存在を報告したのならば。
いや、事情を知らされているのは約一部の人間だけだろう。しかしそれは何の気休めにもならない。
ある弁護士を探しているということしか聞かされていない者が、ただ命令を守るためだけに
上に報告をしてしまったら───

(成歩堂……!)

思わず名前を叫んで彼を呼びそうになった。
長く息を吐き出し、もう一度探し直そうと顔を振り向かせると。

「!」

探し求めていた、青いスーツが視界に入った。
視線を滑らす。成歩堂は私と目が合うとほっとしたように表情を緩めた。しかしその次の瞬間。
彼と私の間に割って入る人影。思わず私はぎくりと顔を強張らせる。

「御剣検事!」

今警察が全力で捜しているという渦中の人物の成歩堂を背にして、糸鋸刑事が私を見つめていた。







「どうした、糸鋸刑事」

私に呼び掛けようと口を開きかけた成歩堂を視線で制す。
何の事情も知らないはずの成歩堂は、私の切羽詰った様子に何かを感じ取ったのか
小さく頷いて側の壁へと背中をつけ唇を結んだ。

「御剣検事こそ。用事があったんじゃなかったッスか?」
「いや……」

何も気付かぬ様子で糸鋸刑事は歩んできた私を待ち構えていた。
どうやら成歩堂の顔を知らないらしい。
いや、すぐ後ろに立つ成歩堂に全く気が付いていないだけなのかもしれない。
───彼が振り向かないよう気をつけ、そして早くこの場から立ち去らせなければ。

「私はこれから出掛けるところだ。君はこんな所にいていいのか?担当する事件があるだろう」

自分から話を振って、失敗したと気付いた。彼と私と。そして後ろに立つ成歩堂と。
三人が共通して担当する事件……それは綾里弁護士の事件に他ならない。
糸鋸刑事は少しだけ声を潜め神妙な顔で言う。

「例の裁判は三日後ッス。自供は難しいと思うッスけど…証拠も目撃者も揃っているッス。
  御剣検事なら有罪にするのもそう難しくないはずッス」

ああ、と小さく頷きながら私は成歩堂の様子を窺う。
彼は壁に背をつけたまま俯き、じっと床の一点を見つめていた。

「……あの子もかわいそうッス。相手が悪すぎるッス。
  国選弁護人もロクなのが付かないだろうって、署長が言ってたッス……」
「う、うム」

糸鋸刑事は大きな肩を落とすと、狼狽する私を気にも留めずそう独り言を零す。
そして顔を上げた。驚く私をじっと見つめ、糸鋸刑事は口を開いた。

「でも、我々があの子を逮捕したのはちゃんと証拠があったからッス。御剣検事、わかってるッスか?」
「……わかっている。被告を有罪にするのが検事である私の務めだ」

警察官と検察官は信頼関係で結ばれている。
個人の考えで被告以外の人間を疑うなどと、私には許されていない。
糸鋸刑事は先程の私の発言を気に掛けているのだろう。

小中氏は犯人でも被告でもない。彼は無実で、有罪なのは逮捕された綾里真宵なのだ。

しかし、そう答えた瞬間。
側に立つ成歩堂の顔が─── 明らかに変化したのが見て取れた。
表情が硬いものとなり、けれども唇はゆるく結ばれていて。
その表情はまるで私たちの会話を鼻白んでいるようにも見えた。 そして俯いた彼は私を一切見ようとしなかった。

この前の事が思い出される。

私の言葉を聞き、驚きに目を見開いた成歩堂を。
私の主張を聞き、それは異常だと言い切った成歩堂の言葉を。
成歩堂は私を軽蔑しているのだろうか?

やはり、私はただの検事であって彼の敵にしかなれないのだろうか。

「自分はまた現場に向かうッス。また何かあったら連絡するッス!」
「あ、ああ……」

後方の彼に気を取られていた私の返事が濁る。
けれどもそれに気付く様子もなく、糸鋸刑事は私に向かって一度敬礼すると身体を反転させた。
そして青いスーツの彼のすぐ横を通り抜けるとそのまま出口のある方向へと走り出した。
私はその後姿を無言で見守り、背中が見えなくなったのを確認すると。

「成歩堂。こっちだ」

目を丸くする彼の手を取り、強く引き寄せる。状況を説明している暇はなかった。
すぐ側にあった扉を開き中に誰もいないことを確認すると、成歩堂の背中を押して
自分もろとも部屋の中へと押し込んだ。







誰もいないがらんとした控え室に彼と二人。初めて会った日のことを思い出す。
しかし今の私にはそんな思い出に浸っている余裕はなかった。俯いて謝罪の言葉を吐き出す。

「……すまない。このような場所に君を呼び出さなければよかった」
「いや、ぼくの方こそ忙しいのに連絡取っちゃって悪かったな」

成歩堂の声色には何の変化もない。無さすぎて、感情が何も感じ取れないほどに。
私は目を逸らす。居た堪れなかったのだ。何故だか急に、とても。
目を逸らしたまま私は口を開いた。

「綾里弁護士は」

そこまで言いかけたが、私は次の言葉を繋げられなかった。仕方なく顔を上げる。
するとそこには色褪せた成歩堂の目があった。
絶望と深い悲しみを湛えた瞳は私を見返した後、ゆっくりと外された。成歩堂は呟く。

「御剣……」

ぼんやりと視線をさまよわせる成歩堂の肩を思わず掴む。

「わからない……何もわからないんだ、ぼくは」

呻くように成歩堂は言う。
事件が起こってから取調べを朝まで受け、綾里真宵のいる留置所に行ってきたと告げると、
まぶたを落として深い息を吐き出した。その顔には疲労の色が濃く表れていた。

「わからないんだよ」

もう一度そう言い、苛立ちげに首を振る。
被害者の一番近くにおり、遺体を発見たのにも関わらず何一つ情報が入ってこない。
殺害された理由も、犯人の心当たりも、現在の状況も何一つわからないという。
どうやら糸鋸刑事が言っていたことは杞憂だったらしい。
成歩堂は綾里弁護士に何も知らされていない。
わかっているのはただ、綾里弁護士が殺害されたということ。
そして殺害したのはその妹の綾里真宵であること。

「あの子が、千尋さんを殺すわけない。あんなひどいことができるはず……ない」

目を閉じたまま吐き出すように成歩堂は言った。
彼の手が何かを求めるように空に浮き、そして何も掴めないまま降ろされる。
きっと彼は思い返しているのだろう。
あの日あの夜、目に映った残酷な光景を。そして、その手に抱きとめた遺体の冷たさを。

「成歩堂……」

彼の肩に乗せていた手のひらに力を込める。
掛ける言葉は思いつかないが、傷つき弱る彼を放ってはおけなかった。
布越しに感じる彼の体温は温かく、それはまだ彼が生きているという事実を私に認識させた。
精神状態はどうであれ、とりあえず彼が無事でよかったと……心底ほっとしたのもつかの間。

「御剣が、千尋さんの事件の担当なのか」

耳に成歩堂の呟きが届いた。
思わず顔を上げ、彼を見つめる。すると彼もまた私を見つめていた。

「あの人の妹を有罪にするんだ?」

言葉と共に真っ直ぐ射抜かれて言葉が詰まる。
成歩堂は俯かせていた顔を私に向け、静かな口調でそう問い掛けてきた。
詰る口調でも非難するような口調でもない。だから余計言葉に詰まった。
成歩堂は静かに私の言葉を待つ。
視線を私に向けたまま。発作的に逃げ出したいような気分になる。しかし。しかし、私は ───

「……私は、検事だ。被告人を有罪に導く事こそが被害者の無念を晴らす方法だと私は考えている」

弁護側が被告が無罪だと主張したとしても、私は証言や証拠品を使って彼女の犯罪を立証しなければならない。

君が、無罪だと言っていても。
君が、立ち向かおうとも。
君と、相容れないとわかっていても。
それだけは曲げることができない。

「うん」

成歩堂は私の言葉に一度頷いた。視線を外さずに、ただ一回。それだけだった。
彼が後ろに一歩引き、私と彼の距離が開いた。私は触れさせていた手を下ろし成歩堂に問い掛ける。

「君が弁護するのか?」
「うん。まだわからないけど……多分」

顔を頷かせる彼に何と言っていいのかわからなかった。
警察も検察も、全てが誰もが有罪判決を望んでいる。望んでいるだけではない。
確信しているのだ。綾里真宵が有罪になることを。
それが最初から定められた結果であり、この先にある未来なのだ。

「無謀だと思ってるだろ?」

私の顔を覗きこみ成歩堂は笑った。心の中を見透かされたようだった。
自嘲の、そして開き直りのようなその笑い方に私はますます沈黙してしまった。
成歩堂はそんな私から視線をふいと逸らすと今度は何もない方向をじっと見つめる。
その様子を窺う内に彼の顔からは表情が抜け落ちていった。
浮かべていた笑いが消え……そして何もなくなる。
無表情のまま空を見つめる彼に不安になり声を掛けようと唇を動かしたけれど、言葉は出てこなかった。
何を言っていいのか、わからない。
困惑しきった私は彼から視線を外し俯く。と、その時。

「彼女は無罪だと言っているんだ。だからぼくはそれを信じる」

とても静かな成歩堂の声が耳に届いた。私ははっと顔を上げる。
強い瞳で成歩堂は前を向いていた。
声色とは全く違う、 ただただ強い光が彼の瞳に灯り燃えるように輝いていた。

(……君は)

弁護士なのだな、ととうにわかっていたはずの事実を再認識する。
成歩堂は弁護士なのだ。
私と正反対の場所に立つ男。検察側の主張を崩す側の人間。憎き犯罪者を救う立場の人間。
そして、私と同じなのだ。
私がどうしても、どう足掻いても検事であるのと同様に。─── 彼もまた弁護士なのだ。

「何?」

私が見ていることに気が付いた彼は、挑むような笑みを浮かべて問い掛けてくる。
内心動揺した私は口ごもるようにして答えた。

「いや……妙に自信があるように見えてな」

本当のことなど言えない。正直に見惚れてたと言えば、君はきっと笑うのだろうから。

「自分じゃないっていう真宵ちゃんの言葉があるから。それがぼくの自信の理由かな」

成歩堂は黒目を斜め上に運び自分の顎に手を当て、軽い口調で言う。
その口調はいつものように親しみが感じられるもので私はほっと安堵した。
しかし彼の言い分はよくわからない。驚いた私は思わず聞き返してしまった。

「何の根拠も証拠品もないのに、彼女の言葉だけで裁判に立ち向かえるというのか?」
「まぁ、お前にそれを理解しろって方が無理だと思うけどさ。内心、あきれてるだろ」

それとも相手弁護士になったぼくが急に憎らしく思えた?と冗談ぽく言い、
肩をすくめて困ったように彼は笑う。私はその表情を受け、黙る。しかし、数秒後。
向けられる視線に答えるように私は口を開いた。

「検事の仕事は人を疑うことから始まる。私には、被告の言葉も弁護士の主張も信じることはできない。
  すでに逮捕された犯罪者の助けをする弁護士など、愚かにも程があると思っていた」

私の言葉に成歩堂がわずかに目を見張った。
彼が私のこの信念を好ましくなく思っていることは気が付いていた。
私を異常だと言い放ったことも、ただの勢いではなく本音が口をついてしまったということも。
そうと知っていても私は言葉を止めなかった。
微かに揺らぐ彼の瞳を見つめ返し、私は言う。

「けれども。信じることも決して無駄なことではないと……今は思う」

それは、君と。
君と出会ってから。君という心に触れた時から。
全てのものを疑うように生きてきた私に変化が起きた。
君を、信じたいと思う。信じるという事がこんなにも簡単だという事を、君と出会うことで私は知った。

「今でも、弁護士という存在を憎いと思わないわけではない。……が、成歩堂のことは好きなのだ」

言い切ってから気がついた。
成歩堂がびっくりしたように丸い目をさらに丸くして私を見ている。
目が合うとみるみるうちに顔が赤く染まっていった。

「て、照れるじゃないか、何言ってるんだよいきなり」
「う、うム……」

どもる成歩堂の声に私もついつられてしまった。
自分の言ったことが恥ずかしくて堪らなくなり、私も顔が赤らむのを感じた。
大の大人の、しかも男同士が二人顔を赤くして向かい合う様は傍から見たらかなり不気味なものだろう。
それを成歩堂に言うと彼は声を上げて笑った。
しばらく笑い続けた後。成歩堂はぽつりと言った。

「……御剣といるとさ、嫌なこととか忘れられるんだ」
「ム。そうか」

───私も同様なのだよ、と素直に言えばいいのだが。
いつもいつも皮肉な笑みばかり生み出している口はぴくりとも動いてくれない。
成歩堂はそれに気付いたのか私の様子を見てまた笑った。
ひとしきり笑い終わった後、成歩堂は腕にした時計に視線を走らせた。

「そろそろ帰るよ」
「そうか」

私も勤務中ということを思い出した。
お互いに事件を担当している身だ、いつまでもここにいるわけにもいかない。
次に会う約束もせずに私はその部屋のドアノブを掴んだ。

三日後には会える。
同じ裁判の、弁護人席と検事席という二つの場所に離れて。

名残惜しい気持ちを振り払うかのようにして私は、ノブを掴んだ手を動かそうとした。
しかしすぐに動きが止まる。

「成歩堂?」
「うん」

突然、肩を掴まれた。 呼びかけた名前に成歩堂は短く答える。
その後に、私に触れたものは。

「ごめん、御剣、ちょっとだけ。───ちょっとだけ」

振り向いた私の胸に成歩堂の顔が沈んだ。黒く尖った髪がすぐ目の前で揺れる。
そして成歩堂はまた呟いた。ごめん、と小さく掠れた声で一言。
私の肩に置いてあった手が静かに移動する。成歩堂自身の顔へと。
自分の顔を両手で覆い、成歩堂は私の身体に体重を預けた。

「………成歩堂」

私は目を閉じて彼の髪に頬を寄せる。
彼の尊敬する女性弁護士の死を心の中で悼みながら。 ───それと同時に。
彼の重みと体温があまりにも愛しくて悲しくて。

私は無言のままただひたすらに祈る。
どうか彼の痛みが少しでも薄らぐように、と。
そして、この先何が起ころうとも。彼だけは自分が守っていこうと。

微かな身体の震えに気付きつつも、私は何も言わずに成歩堂を抱きしめていた。

悲しみがまるで霧のようにその部屋を覆っていき、私と成歩堂の姿をも包んでいった。

 

●   
・.

 





 










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