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『君じゃないのだろう?』
幼い声が頭に響く。 それに答えるのも、幼い少年の声。
『う…うん』
『それならば、堂々としたまえ。これだけ話し合ったのに君がやったという証拠はない』
「成歩堂くん。…本当にいいんですね?」
「はい。自分の弁護は自分でします」
裁判長の静かな問い掛けに成歩堂は何の迷いもなく頷いた。堂々と、全く悪びれることなく。
『君じゃないのだろう?』
そう聞いたのは誰だった?
15年前の記憶はほとんど残っていない。自分で無理矢理封じ込めていた。
悪夢に見る、エレベーターの中以外の出来事は全て。
思い出すだけで苦しくなる。息が詰まる。
裁判二日目。
いつの間にか、被告は綾里真宵から成歩堂龍一へと変わっていた。
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小中氏の証言は、全て打ち合わせ通りだった。
しかし、矛盾と嘘だらけの証言に弁護士は容赦なく異議を叩き付けてくる。
「つまりあなたは犯行があった瞬間、殺人現場にいたんです!」
バン、と机を叩く激しい音に法廷は静まり返った。
証言台に立つ小中氏はついに余裕の笑みを消し、顔を真っ青にして口を閉じる。
弁護士は小中さん、と落ち着いた声で証人を呼んだ。
「あなたが…やったんですね?」
裁判長、傍聴人、そして証人。全ての視線が弁護士に集まり、証人席へと移動する。
人々は息を詰めて彼が起こす逆転劇を見守っていた。
ほぼ有罪が決まりかけていた裁判は、弁護人によってひっくり返されようとしていた。
───まさか、彼がここまで食い下がるとは。
私は内心、驚いていた。法廷に立つのもまだ二回目で素人同然だというのに。
裁判の流れが一瞬にして逆転する。そのような弁護士と対面したのは、実は初めてではなかった。
綾里千尋…この事件の被害者でもあり、成歩堂の師匠でもある。
指を差し、高らかに発言する成歩堂の姿は生前の彼女を思い出させた。
しかし、その流れさえ私は全て読み切っていた。 私はあの頃のままではない。
このような事態に陥っても以前のように判決を逃したりなどしない。
(やはり…ヒーローなどこの世にいないのだな)
成歩堂の鋭い視線を受け、狼狽する小中氏を見つめながら考える。
正義が必ず勝つのは作り物の世界の中だけのことだ。
あの弁護士が犯人などと、無理のある起訴内容にもかかわらず彼は無罪判決を勝ちることができないのだ。
私は息を吸い込んだ。そして声を張り上げる。
「異議あり!」
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「御剣検事…」
視線を空から外すと、大きな図体を小さく縮めた糸鋸刑事がドアの近くに立っていた。
休憩室には他に誰もいない。大物が自ら罪を認めて緊急逮捕されたことで法廷は騒然となったが、
彼が警察署に連行されるのと同時に裁判所内は静けさを取り戻していた。
私は唇を歪める。笑おうとしたのではない。ただ、表情を崩しただけだ。
その表情に気付くと、糸鋸刑事はまた少し肩を下げる。私は視線をまた空に向けた。
日が消えかける紅い空へと。
「……笑うのか、哀れむのか。どちらかはっきりしてくれないか」
「笑うなんて!自分はそんなことしないッス!」
抑揚のない私の言葉に彼は首を振って答えた。
先程の裁判で、私ははじめて敗訴したのだ。素人同然の、そして幼い頃の級友に。
それは経験したことのない感覚だった。突然、足元をすくわれたような。
完璧という名のプライドが音を立てて崩れていく。
「御剣検事」
糸鋸刑事が気遣わしげに私を呼ぶ。私はそれを振り切るかのように、足を一歩踏み出した。
カツン、と硬い音がその場に響く。私が足を動かすと、それに合わせて靴が床に当たり音を生み出す。
一歩、一歩と響く靴音に安堵する。───ああ、自分はまだ歩けるのだと。
「警察署に戻る」
検察官の表情を形作りそう短く告げると、私は糸鋸刑事の横を通りすぎた。
そして裁判所の出口へと真っ直ぐに向かう。
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この世にヒーローなんていない。
正しいものが必ず勝つなんて、現実世界では考えられないことだ。
それは、私が今まで歩んできた道を自身で振り返ればすぐにわかること。
間違った証拠、証人、そして証言。それをいくつも抱え法廷に立つ私に、敗北などなかった。
無実のものを有罪に導きながら、自分の足元を確立していった。それが私の歩んできた道だ。
ヒーローの存在なんて信じられない。
しかし。
彼は見事にそれをやってのけた。
追い詰められた立場で、敵ばかりしかいないあの歪んだ法廷で。
もしかして、ヒーローはいるのかもしれない。
「馬鹿らしい…」
思わず低い呟きが落ちた。
愚かなことを考えてしまった。作り物だからこそトノサマンは勝てるのであって、正義の常勝を信じ切れるほど
私は幼くもない。 あの頃のようにただ純粋に弁護士を目指せるほど、私はもう。
視線を落とし、視界に映った自分の手をじっと見つめる。
「………」
手を一度握り、そしたまた開く。この手は汚れきっている。
15年前に殺人を、そして有罪を勝ち取ってきたこの手。
私はこの手とともに生きていく。 今までも、そしてこれからもずっと。
この世にヒーローがいるはずなら。悪者の私は罰を受けなくてはならないのに。
どうしてこんな私が生きながらえているのだろう。
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