index >novels_top

BACK NEXT 





 「あ、危なかった……」
 自分を追ってくる人影が全く見えなくなり、走っていた足を止めると。独りでに呟きが落ちた。
 暦では九月とはいえ、暑さはいまだに濃く残っている。ぼくは首筋を流れる汗を手の甲で拭う。強かったはずの日の光が微かに柔いでいる。ぼくは慌てて腕時計を見た。
(五時半……)
 千尋さんと小中の待ち合わせにはまだ時間がある。けれどもぼくは、まだ何もできていない。やばい。気が焦ったぼくは次の目的の場所も定めないまま自分の足を前方に運んだ。次第に踏み出す間隔を狭め、走り出す。
 とりあえず事務所に戻ろう。千尋さんを一人にしておくわけにはいかない。それか事務所の前で待ち伏せして、小中が中に入るのを阻んだらいいのかもしれない。
 走りながら九月の暑さの残る街並みを眺めていると、自分の頭の中に、次第にぼんやりと人々の影が浮かび上がる。
 松竹梅世、小中大。イトノコさん、御剣──御剣。
 先ほどぼくをきつく睨んでいた御剣の目を思い出して、思わずため息が零れる。忘れていた。あいつはあんな目でぼくを見ていたのか。あんな、憎しみと怒りを込めた負の目で。
 ──いや、忘れていたというよりも。今知ったんだ、ぼくは。
 あの冷淡な空気をまとい、検事席で有罪を完璧に立証する御剣の姿は、対面する弁護士どころか被告人、傍聴人にも恐怖の感情を抱かせるだろう。鬼検事と呼ばれていた理由がやっとわかった気がする。
 そんな彼と、人生二度目の裁判で向き合って弁護して。三年前の自分に自分で感心する。
 無鉄砲だったんだなぁ、としみじみ思う。無鉄砲というか無知というか怖いもの知らずだったというか。千尋さんにも言われたっけ。矢張の裁判の時に、すごい度胸ねって。
 今のぼくが知っている御剣には、あんな恐ろしい迫力はない。いやいや、未来の御剣が迫力を失ったというわけではないけれど。もっと、穏やかで威厳と余裕があって……それこそ、完璧な検事として。御剣は今を生きている。
 さっきのぼくの助言で、あいつは湖に行くのをやめてくれるだろうか。突然現れた級友の言葉を胸にとどめ、あの場所に向かう足を自ら止めてくれるのだろうか。十二月二十五日に、誤認逮捕されることを避けれるのだろうか。
 けれども。
 動きを止めたのは、ぼくの走る足の方だった。
 移動する速度を緩めてぼくは考える。

 もし、あの冬の日。御剣が湖に行かなかったら?

 狩魔検事の計画は失敗する。
 生倉弁護士の命は奪えるかもしれないけれど、その罪を御剣に着せる事は不可能になる。DL6号事件は真犯人がわからないまま時効を迎える。
 御剣は犯してもいない罪を抱え、自身を憎み続け、狩魔検事の下で新たな罪を生み出していく。ずっと、ずっと。彼が死ぬその時まで。ぼくがこうして走り回ったおかげで。
 御剣は湖に行かない。
 ぼくのおかげで。
 千尋さんは小中に会わない。
 ぼくのおかげで。
 あの裁判の時に、千尋さんがぼくに渡してきたメモ。小中が脅迫してきた人たちの名前がたくさん書かれていた。小中はそれを聞いて罪を認めた。小中が千尋さんを殺してまで欲しがっていた書類……千尋さんが真宵ちゃんに託そうとした証拠品。きっとそれと、ぼくに渡されたメモの内容は同じものだろう。
 長年追い続けていた小中を、追い詰めることのできる情報を千尋さんは手にしている。そして、その決着を今日つけようとしている。他の誰でもない、自分自身の手で。
 破滅したお母さんのために彼女は里を捨て、真宵ちゃんと遠く離れて暮らす道を選んだのだ。小中に復讐するために。今日という日のためだけに。
 ぼくが小中の足を止めれば。
 千尋さんは小中に会わず、生き永らえる。
 でも、そうなっても物事は何一つ解決せず、ただその人の闇を深くしていくだけなんじゃないだろうか?千尋さんは喜ぶのだろうか。目的を果たす機会を、ぼくによって永遠に失ってしまうことを。それは彼女を幸せにするのだろうか?それとも逆に、不幸にしてしまうのだろうか。
 全ての運命が好転するなんて保障はない。保証はないのに、一体ぼくは何をしようとしているんだろう?
 ──なんでぼく、走ってるんだろう?
 ふいに浮かんできた疑問は、消えるどころかさらに重くなってぼくの胸に圧し掛かった。







 

BACK NEXT 

index >novels_top