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 そうかと言ってぼくは、そのまま事務所に背を向けることなんてできなかった。扉を押すともうすでに赤くなった日の光がぼくの顔にも差し込んでくる。思わず、目を細めたその先に。
「おかえりなさい」
 千尋さんがいた。窓際に立ち、窓枠に右手の指を掛けたままぼくを振り返って。
 とても綺麗に微笑む。
「……ただいま、千尋さん」
 泣き笑いのようになってしまった気がする。
 そう答えたものの、ぼくは。自分の心が冷えて冷えて悲しくて悲しくて堪らなかった。千尋さんはもうすぐ消えてしまう。死んでしまう。
「今ちょうどコーヒーを入れたところなのよ。疲れたでしょう?」
 千尋さんは窓の近くで──あの最後の場所に立ち、微笑んでいた。
 立ち上るコーヒーの香り。部屋を照らす赤い光。きらきらと星のように輝くガラス製のスタンド。
 ぼくの目に映るもの、まるで全てが夢のようで。ぼくは扉近くに立ったまま一歩も動けなくなってしまった。
「なるほどくん?」
 千尋さんは窓の近くからぼくに呼び掛ける。その声は確かに響き、この耳に届いているはず。けれども。
「千尋さん」
 口調を少し強め、でもその場所から動かずに。ぼくは彼女を呼んだ。千尋さんは小さく頷いただけで返事は返さなかった。窓枠から手を離し、ぼくに向き合うと怪訝そうに首を傾げる。
 茶色の髪がさらりと揺れる。元々茶色いその髪は落陽の光にとてもよく似た色をしていて、今にも空気の中に溶けていきそうに見えた。ぼくの目をうっすらと覆う涙の幕が、よりいっそう千尋さんの存在を霞ませる。霞んで、もう見えなくなってしまうほどに。
「千尋……さん」
 先ほどと同じように名前を呼んだつもりなのに。
 ぼくの声は掠れ過ぎていた。ちゃんと呼べていなかった。ぼくは何かに急かされるように口を開いた。
「千尋さん。……千尋さん……千尋さん」
 そして何回も名前を呟く。まだそこにいる、存在していると──生きていると自分で確認するように。自分以外の誰かに、彼女の生を訴えるように。生きているんだ、彼女はまだ。生きているんだ、生きているんだ。
「何?もう、ふざけてるの?」
 首を傾げたまま千尋さんは、今度は眉をしかめたように見えた。でもそれは逆光でよく見えない。ぼくは彼女の元に駆け寄り両肩を掴んだ。
「ちょっと、なるほどく……」
 動揺する千尋さんの声。でもぼくはやめなかった。彼女の肩を強く掴み、逃れようとする身体を窓枠に押し付けてそれを阻んだ。
 肩を掴んだぼくの手のひらに、千尋さんの持つ温かい体温を感じた。記憶の底に今だこびり付いている、最後に抱えた彼女の体温を思い出した。
 駄目だ、助けるんだ、絶対に。
「千尋さん。これから小中と会うんですよね?」
 混乱してぼくを見上げていた千尋さんの目が瞬時に固まる。目に見えるほどはっきりと大きく息を飲んで。
「どうしてそれを……」
「会わないでください。奴に会っちゃ駄目だ」
 激情のままぼくは彼女に忠告する。ぼくの勢いと発言と、掴まれた肩と。それらに混乱を強いられた千尋さんは、ぐるぐると黒目をさ迷わせる。
「会っちゃ駄目なんだ、絶対に……絶対に駄目なんだ!」
 気が焦り、言葉の意味も考えずにぼくは駄目という単語を繰り返す。一人昂るぼくを見て我に返ったのだろうか、千尋さんは冷静さを取り戻す。
「何言ってるの?それは……どういう意味?」
 そして抑えた声でぼくに尋ねる。
「なんでもいいから……とにかく会わないでください!」
 ぼくは声を荒げた。そして、沈黙が流れる。
 千尋さんは険しい表情のままぼくを見つめていた。ぼくは彼女の肩を掴み、窓枠に押し付けたままそれを受け止めた。わずかに肩を揺らして身動ぎ、自由を奪うぼくの手を睨んだ後。ぼくの目に溜まる涙を見、小さく息を吐き出した。
 それは完全な拒絶の。
──あなたには関係のないことよ」
 ぼくは腕に力を込め、言い返す。
「会わないでください。お願いですから」
「どうして?理由を言いなさい」
 首を横に振ったぼくを千尋さんは厳しい上司の目で見た。不快の色が混じった目で睨まれてもぼくは怯まなかった。
「じゃあ、ぼくも一緒に会います。いいですよね?」
 千尋さんはさらに表情を険しくさせる。それはどう見てもぼくの申し出を了承した表情ではなかった。
「あなたには関係ないって言っているでしょう?そんな……」
「嫌です!絶対に、ぼくもここに残ります!」
 自身の重さに耐えかねて、ついに涙が頬を流れ落ちる。ぼくはかんしゃくをおこした子供のように叫んだ。千尋さんの目がまた少しだけ動揺で揺れる。詰め寄るぼくから無理に身を引こうとする千尋さんの肘が、大きく振れた。
「!」
 今度は防ぎようがなかった。
 二人のすぐ近くにあった机の上に置かれた白いカップに辺り、それは弾き飛ばされるようにして落ちた。その勢いのまま床へとぶつかる。心に直接突き刺さるような鋭い音を立ててカップは割れた。
「あ……」
 ぼくたちは一瞬、動きを止めて二人の間に落ちたカップを見つめた。白い破片が床に散らばり、よりいっそうコーヒーの強い香りがした。
 千尋さんはきっとその光景を見て、ある一人のことを思い浮かべていたに違いない。カップの持ち主であるあの人のことを。
 でもぼくの脳裏に浮かんだのはその人のことではなかった。割れた破片が違うものに重なる。事務所から光が消える。整頓されていたはずの本棚から本が落ちる。倒れた観葉植物。散乱する書類たち。鼻に付くのはコーヒーの匂いではなく血の。目の真の彼女は窓の下の壁に寄りかかり、がくりとうなだれたまま動かない。
 さぁっと全身に寒気が立った。
 神乃木さんのカップは割れる。ぼくが受け止めたはずなのに。
 千尋さんは死ぬ。ぼくが一日走り回っても、必ず。
「駄目……だ」
「え?」
 重く固まって動きにくい喉から、潰れた声が落ちた。千尋さんがはっと我に返り、怪訝な表情でぼくを見上げた。茶色い目は光り、確かに輝きをもってぼくを見返す。
 ──生きている。まだ。
 ぼくは千尋さんの肩から腕へと手を移動させ、彼女に怒鳴った。
「……あいつに会っちゃ駄目なんだよ!!」
 会えば、千尋さんは。
 暗闇の中、俯いて絶命する千尋さんの姿が脳にフラッシュバックする。
「なるほどくん!?」
 狼狽してぼくの名を呼ぶ彼女の顔は見えなかった。
 ぼくは千尋さんの身体を引き寄せ、思い切り抱きしめていた。
 怖かった。そして、悲しかった。
 自分の手の中で消えた体温。どうすることもできず、ぼくは彼女の命を見送った。あんな思いをまたするなんて、耐え切れない。怖い。
「会わないで、お願いだよ千尋さん……会わないで」
 自分の顔を彼女の肩にきつく押し付けてぼくは懇願する。それから逃れようと、反発する千尋さんの身体。あの時、どんなに揺さぶって抱きしめても動かなかったはずの。
 助けたい。小中となんか絶対会わせない。そんなのはぼくが阻んでやる。絶対に死なせるもんか。
 千尋さんが今後、自分の目的を果たせずに、他人を憎みながら生き続けていくのだとしても。彼女自身を不幸にするのだとしても。どうしてもぼくは。
 ぼくは彼女を諦めきれない。
「お願いだから……千尋さん……」
 後はもう、声にならない。言葉にできない。
「……おねがいだから……」
 会わないで会わないであわないで──いかないで。







 

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