硬い声に問い掛けられ、ぼくもまた顔色を変えた。
しまった、失念しすぎだ、ぼくも。
御剣が十五年もの間、自分の過ちで父親を殺害したと思い込んでいたこと。そのことを、ぼくに対して必死に隠そうとしていたこと。頑なに拒まれて、避けられて、それでもしつこく食い下がって。御剣の口からようやくその苦悩を打ち明けられたのは──そう、DL6号事件が時効を迎える寸前、十二月の終わりのこと。
九月の初めである今に、ぼくが御剣を悩ませている悪夢を知っているはずがない。
ぼくを見つめたまま硬直し、小刻みに震える御剣の唇に気が付いた。気付けば頬だけじゃない、その唇までもが真っ青だ。今ほど自分の迂闊さを呪ったことはない。
御剣はじっとぼくを見つめていた。探るように睨み付けられ、居た堪れなくなったぼくは視線を逸らす。また、この場から走って逃げようか……
そんな情けない行動を、再び取ろうとした瞬間に。
「糸鋸刑事!」
鋭い声が響き、突然呼ばれたイトノコさんはもとより、一緒にぼくまでも飛び上がる。はいッス!とほぼ条件反射で叫び返事をしたイトノコさんに御剣は視線を移動させると、そのまま厳しい口調でこう命令した。
「この男を取調室に連れて行け!私が戻るまで拘束しておくように」
「えええええ!!?」
思わず叫んだのはぼくだけじゃない、イトノコさんもだ。
反発の意を込めて思い切り奴を睨んでみた、けれど。有無を言わさぬ冷たい双眸にぶち当たり、ぼくは思い切りたじろいでしまった。
「りょ、了解ッス!」
何だかよくわからないといった表情にもかかわらず、イトノコさんは忠実に御剣の命令に従おうとする。腕を掴まれて、ぼくはそれを力を込めて振りほどく。
冗談じゃない、今日だけは御剣に付き合ってる暇なんてない。
「あ、コラ、待つッス!」
身体を反転させ、出口に向かって走り出そうとしたぼくの背中をイトノコさんの声が追いかけてくる。さっき、コナカルチャーから逃げ出したのと全く同じ状況に思わずため息を付きそうになった。が、今はそんな余裕はない。
そのまま加速しようとしたぼくの足を、ある考えが止める。
振り返る。
混乱した表情でぼくを追いかけるイトノコさんと、その後ろで偉そうに腕を組みふんぞり返る御剣が見えた。
ここは、過ぎ去ってしまった過去の世界。ぼくは、これから起こることをもう全て知っている。
さらに御剣を見つめる。御剣は不愉快そうにぼくを見返した。
御剣は知らない。自分を苦しめている悪夢が、自分を苛んでいる記憶が、ある一人の人物によって引き起こされたということを。全てが仕組まれたことで、そしてその人物は今、御剣を陥れようと最後の策を練っている。
御剣はまだ何も知らないのだ。過酷な運命がこれからの自分を待っていることを。最高の裏切りを師と仰いでいた人物から受けることを。──絶望し、検事としての死を選んでしまうほどの裏切りを。
イトノコさんがぼくに迫り、また腕を掴まれ、それから逃れようと手を振り回す。焦った状態のぼくに、今後起こることを御剣にうまく説明できる言葉は見つからなかった。
十二月二十五日。ひょうたん湖のボートの上で。
君は。
「クリスマス……」
単語だけが先に、ぽろりと零れ落ちた。イトノコさんが不意をつかれて、ぼくを捕まえようとする手が止まった。その隙をついてぼくは身体を再度室内に向き直させ、声を張り上げて奴を呼ぶ。
「御剣!」
冷酷に固めていた御剣の表情がごくわずかだが変化する。ぼくはそれに気付いて喜ぶ間もなく、続けて叫んだ。条件反射かいつもの癖か、右手の人差し指で相手の顔を指差した格好で。
「クリスマスイブに生倉っていう人にいきなり呼び出されても……絶対ボートに乗っちゃいけないんだぞ!」
しん、と室内が一斉に静まり返った。
ある者は足を止め、ある者は手を止め。叫んだぼくを見つめる。共通して、口をぽかんと開きながら。
忠告された御剣が一番に気を取り直し、声を発した。
「な、何わけのわからないことを言ってるのだ……!糸鋸刑事、早くあの男を捕まえないか!」
御剣に発破をかけられたイトノコさんが、二番目に気を取り直す。そしてぼくを捕まえようと、また手を伸ばしてきた。ぼくはそれをひょいと交わすと、また出口に向かって一目散に走り出した。
「何をやっているのだ!」
「す、すまねぇッス!」
今も昔も、過去も未来も。全く変わらないやり取りを背に、ぼくは警察署を後にした。