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「センキュー!」
中学生が覚えたての英語を、ほとんど片仮名で発音するような。そんな一言を運転手に贈る小中に、ぼくの前に立っていた梅世が走り寄っていった。ぼくもまたつられてその後を追う。
「社長、おかえりなさぁい〜」
「オゥ!ミス・ウメヨ。さみしくなかったかい?」
梅世、さみしかったぁ〜とくねくね身を捩る梅世の後ろで、思いっきり引いているぼくに小中は気付く。
「フー・アー・ユー?……誰だい?」
ぼくを捕らえたと同時にすっと小中の瞳の幅が狭まる。正確には、ぼくの胸元のバッジを捕らえたと同時に。探るような目線でぼくを見、観察した後。両手を左右に広げよく通る声で叫ぶ。
「ワッチュア・ネイン……ッマッ!」
「…………?」
「ぼかぁキミの名前を聞いているんだよ。ワッチュア・ネイン……ッマッ!」
この馬鹿らしい会話のやり取りもぼくにとっては二度目の出来事。しかし初めてでも、二度目でも。間抜けなこの喋りに呆れ返る感情は全く変化しない。
何も答えないぼくの代わりに、小中にぴったりと寄り添っていた梅世が口を開いた。
「このヒト、梅世が何か悪いことしてるって言ってくるんですぅ」
悪いこと、なんて一言も言っていない。ぼくはただ、梅世が何かをしていること。それを指摘しただけだ。
いつもの癖で人差し指を持ち上げ、揺さぶろうとするよりも早く。小中の一言がぼくの口を塞いだ。
「アハン。おかしなことを言うもんだね」
そして自信たっぷりに笑う。
「何の根拠があってそんなことを言うんだい?根拠があったとしても、それが何になる?キミに何かができるのかい?……弁護士風情が」
「な……」
まるでゴミを見るような目をぼくに向けてくる。自分の中の感情が色々と混ざってしまって、ぼくはうまく言葉を返せない。小中は愉快そうにまた笑うと、宝石を見せびらかすようにして自分の両手を持ち上げる。きらっと目の前で輝く小中の手。
それを目にした瞬間、ぼくの中でまた新たな感情が芽生え始めた。小中の手。千尋さんの生を断ち切った手。これから、千尋さんの命を奪う手。
怒りと憎しみとは別の、静かな闘志のようなものが溢れ出してくる。
証拠品も証言も、法廷記録も。確かに、今のぼくは何も持っていない。でも、だからと言ってそこで足を止めては駄目だ。動く前に足を止めてしまえば、何も見つけることができない。
救いたいと願う、信じたいと祈る。その心こそがぼくの動力源だったはずだ。
御剣の時だってそうだった。あの時、逆境にめげる事など一度もなく、ぼくがただひたすらに弁護をしていたのは。奴を信じ、救いたいと必死に思っていたからこそ。
すっと身体の温度が下がった気がした。
諦めたんじゃない。新たな決意がぼくの胸を熱くする。
──ぼくは。今度こそ、彼女を救うのだ。
最初は小中の言葉にいちいち顔色を変えていたぼくが、落ち着いた表情で睨み返したのが気に障ったらしい。小中は露骨に眉をしかめる。
「ホワッツ?……何だい?」
言葉で他人の心を操り、自分の地位を固めてきた男だ。ぼくの表情の変化を見逃すことはしなかった。声を潜め一人呟く。
「どうやらキミは何かを知っているらしいな……」
小中はぼくからふっと視線を外し、近くにいたガードマンに目配せをした。それに気付いたぼくはゆっくりと、後ろに下がり始める。
ここで捕まったら、ぼくは本当にもう何もできなくなってしまう。
「あ!……ちょっとぉ!待ちなさいよ!」
梅世の甲高い声がぼくに投げ付けられた。ぼくはその声を無視し、逆に背中を向ける。振り返りもせずに、必死に両足を動かしてその場を離れた。数人の、賑やかな足音が自分の後に続くのを目でなく背中で感じながら。
しばらく、がむしゃらに走り回った後。
ぼくはコナカルチャーの前に戻ってきていた。追いかけてくる人々を何とかまき、他のビルの壁に隠れて辺りを窺う。
小中と梅世がいた。ぼくが捕らえられ、戻ってくるのを待っているだろうか。中に入らず二人、何やら言葉を交わしている。
(……無理、か)
何か、今夜の計画の話を少しでも聞ければと思い戻ってはきたものの、二人の声は小さすぎてぼくにまで届いてこない。しかし、これ以上近付くと存在に気付かれてしまう。
ぼくは隠れて息を潜め、気付かれないようして真犯人である小中を見守ることしかできなかった。
仕方がない。小さくため息をつき、ぼくはその場を離れることを決めた。これ以上ここにいても時間が過ぎていくだけで何もならないし、逆に自分の身が危うくなるだけだ。
(………)
そうは思っていても、この猛る思いは静まりそうにない。
だいたい、アイツさえいなければ舞子さんはマスコミに追い立てられる事もなく、星影先生も長年脅される事もなく。千尋さんも死ぬ事もなかったんだ。全ての発端となる事件を起こしたのは、彼とはまた違う人間だけれども。あの男が綾里家の運命を捻じ曲げたといっても間違いではないと思う。
悔しげに唇を噛み、視線を小中から逸らした。──そのぼくの目に付いたもの。
右足を身体の後ろに運ぶ。そして路上に放置されていた空き缶に向けて勢いよく下ろす。カン、と小気味よい音と共に空き缶は空を舞った。ぼくの爪先に押された缶は綺麗な弧を描いて小中の後頭部に見事直撃した。
「アウチ!」
馬鹿らしい叫び声を聞き、ぼくは吹き出すのを堪えつつその場を走り去った。
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