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掃除をし終わってようやく所長室に戻ってくると、書類から顔を上げた千尋さんがぼくを出迎えた。手招きされ、そのままデスクの前まで進んだぼくに千尋さんは封筒を差し出す。そしてぼくに今日の仕事を指示する。
「なるほどくん、今日戻ってくるの何時くらいになりそうかしら?」
 最後に付け加えられた言葉にぼくは緩やかな笑みを返した。ぼくは、今日の彼女の予定を知っている。
「妹さんが来るんですよね、今夜。そして二人で、よく行くラーメン屋に行くんですよね」
 彼女の言葉を先読みしてぼくはそう告げた。
 その言葉に千尋さんの目が丸々と大きく見開かれる。
「私、あなたに話してたかしら?妹と約束してること」
 首を傾げた彼女の質問にぼくは、曖昧な笑みを返して誤魔化した。千尋さんの瞳の上にある眉がほんの少し歪む。不審げに、不満げに。彼女の唇が疑問の言葉を吐き出す前にぼくはまた口を開く。
「真宵ちゃん、みそラーメン大好きなんですよね」
「……何で知ってるの?あなたにそんなこと言った覚えないわよ」
「仲良しなんですよ、ぼくたち」
「会ったことないでしょ」
 引き続きぼくの頬に浮かんだ笑いを、千尋さんは冗談のものだと解釈したらしい。柔らかい口調でそう言ってぼくを諭す。
「九時くらいに妹が来るから早く帰ってらっしゃいね。なるほどくんに会いたがってるから、あの子」
 そう告げると千尋さんは、また顔を俯かせて意識を書類へと戻してしまった。ぼくは笑みを消さないで千尋さんの横顔を見つめる。
 会ったことあるんですよ。
 これからぼくは真宵ちゃんの弁護をするんです。
 そしてあなたと過ごすはずだった時間の多くを、彼女と過ごしていくことになるんです──
 頬に浮かんでいた笑みが乾いたものに変わる。特に意識していなかった未来が急激に切なく思えた。
 これからのぼくを、千尋さんを、そして真宵ちゃんを待つ運命は何て悲しいものなんだろう。千尋さんはぼくの視線を気に留める様子もなく、仕事に没頭していた。その綺麗な凛とした姿に憧憬の念を抱くと同時に激しい痛みが胸を刺す。
 千尋さん。……あなたがいなくなった三年後に。
 あなたが大事に思う人が、あなたの大事な妹を守るため、あなたの母親を刺し殺すんですよ。
 神乃木さんはまだ、病院で永い眠りについている最中だ。そして舞子さんはひたすら身を隠して生きている。
 そのことが全てあの葉桜院で起こる悲しい事件に結びついている。誰か、何かひとつでもいい、どこかの歯車が狂っていたらあんな悲劇が生まれることはなかったのに。
 自分のデスクにつき、椅子に腰を下ろすと同時に泣きたくなってきた。
 過去に戻って一体、どうなるというんだろう。
 ぼくに何ができる?死に逝く彼女の背中をただ、見ていることしかできないのに。やるせなさと無力感に戦って疲れるだけだ。過去に戻るなんてことは。
 デスクの上で組んだ両手の指に額を押し付けて深く重いため息を吐き出そうとした。その時。
 ふいに、何の脈絡もなくある記憶がぼくの中に甦った。
「千尋さん」
 ぼくはため息の代わりに言葉を発した。名前を呼ばれた千尋さんが顔を上げたのと、彼女の肘がカップに当たったのと、ぼくが椅子から立ち上がったのは。全て同時の事だった。
千尋さんの足元にカップが音も無く落下していく。
「あ」
 千尋さんは短い声を上げてその様子を見つめる。突然の事で反応できないのだろう。
 止まらない落下、残像が白い線を描き落ちていくカップ。
「危な……」
 しかし、それは床にぶつかる寸前にぼくの両手の中に納まった。走り寄ってきたぼくが手を伸ばしてそのカップを受け止めたのだ。床に膝を付いた状態でぼくは千尋さんを見上げた。千尋さんは唖然としてぼくを見つめ返す。
「……だ、大丈夫…?」
 強張った唇をゆっくりと動かし、千尋さんはぼくに尋ねた。ぼくは立ち上がり、握り締めていたカップを千尋さんへと差し出す。まだ驚いている様子で千尋さんはそれを受け取った。
 割れて壊れるはずだった白いカップは彼女の手の中で形を保ち、日の光を受けて白く輝く。
「怪我、ない?」
 カップを手のひらで包み込んで千尋さんはぼくを見上げた。空だったから、と答えるとぼくはすっと人差し指を伸ばしてそれに向けた。
「大事なものなんでしょう?そのカップ」
 静かな声でそう告げると千尋さんはまた一度瞬きをした。
 思い出したのだ。九月五日の朝。
 千尋さんは不注意で愛用のカップを割ってしまった。床に飛び散った破片を拾おうとする彼女を制した後、ぼくがほうきとちりとりを持ってその場に戻ると。千尋さんがとても悲しげな様子でカップの破片を見つめていた。そして誰に言うわけでもなく、独り言のように漏らしたのだ。……とても大事なカップだったのに、と。
 その事を寸前で思い出したぼくは、彼女の行動に先回りしてカップが割れることを阻んだ。
 未来を知るぼくがいたことによって大事なカップはその形を壊すことなく、千尋さんの手の中にあった。
 千尋さんはそれをじっと見つめ指でその壁をなぞり、小さな声で呟く。
「ええ。……とても、大事なものなの」
 心の底から嬉しさが滲み出るような、見ているとなぜか切なくなるような。
 いくつもの表情が合わさった複雑な顔で千尋さんは言う。そして顔をぼくの方向に向けると、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、なるほどくん。割れなくて良かったわ。……嬉しい」
 千尋さんのその表情は初めて見たものだった。
 今まで見たどの微笑みとも違う、見惚れてしまうほどに綺麗な笑み。
 ──それを見た瞬間。
 ぼくの頭にあるひとつの可能性が閃いた。

 初めて、見た?
 今、ぼくがいるここは過去なんだと思っていた。一度通り過ぎたことのある時間をそのままなぞっているだけだと。
 でも、コーヒーカップが割れなかったことはその過去には無かった出来事だ。彼女がこうして微笑むのも経験したことのない出来事。と、言うことはだ。
 ぼくは未来を変えることができるのかもしれない。
 今後起こる裁判をぼくは全て知っている。真犯人どころかその偽装工作や殺害方法まで。今のぼくは全てを指摘することができるのだ。
 今夜、千尋さんの命を奪う人間、小中大。
 あの男と千尋さんを会わせなければ。ぼくが彼女と共にいたら。それまでに小中が逮捕されれば。
 ──千尋さんは助かる。生き続けることができる。
 過去を変えるんじゃない。変わざるを得ない状況にしてしまえばいい。

 足元からふつふつと。まるでお湯が沸きあがるかのように感情が高まっていく。さっきまでぼくを支配していた諦めややるせない思いが、ひとつの目標に変化していく。どこか夢の中を歩いているような踏み応えのなかった地面が、しっかりとしたものになりぼくの頭を覚醒させていく。
 真宵ちゃんも神乃木さんも、綾里舞子さんも──誰もが千尋さんを待っている。
 一人先に死ぬなんて、絶対に許されないんだ。
「なるほどくん?」
 怪訝に思ったのだろう、千尋さんが眉をひそめてぼくを呼んだ。ぼくはその呼びかけに笑顔で答えてみせる。
 死なせませんよ、絶対に。ぼくがあなたを守るんだから。
 そう心の中で宣言しながら。
「何?変な子ね」
 あきれかえったのか、千尋さんはそう言うとぼくにつられるように表情を緩めて笑う。
 ぼくは不敵に微笑みながら、綺麗に笑う千尋さんと割れなかったカップを見つめていた。







 

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