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扉の向こうに広がっていたのは、いつもと変わらない事務所の光景だった。ポスター、所狭しと本が並ぶ棚、観葉植物。その奥の中央には所長のデスクがあって。さっきまでぼくが見ていた光景と全く変わらないのにでもなぜか新鮮で懐かしくて……
 それを見つめつつ、ぼくは改めて感じた。
 ああ、本当に。過去の世界なんだ、ここは。
 千尋さんが所長でぼくがその部下で、千尋さんが作り出した千尋さんの事務所。
 今ではもうすっかりぼくに馴染んでしまっていて、千尋さんの匂いは少しもしないはずなのに──
 千尋さんは何の迷いもなく足を進め、そのデスクへとついた。
 その部屋の中にあるもの全てが彼女に合わせて存在しているように見えて、ぼくは思わず目を細めた。つんとした鋭い痛みのような感覚が鼻先を掠る。──駄目だ、泣きそう。
 そう思い奥歯を食いしばった時。俯き、今朝届いた郵便を確認する千尋さんが軽い口調でぼくに命令をした。
「そんなところに立ってないで、いいから早くコーヒー淹れてちょうだい」
 思い出した。
 そう言えばこの頃のぼくの、朝一番の仕事はこれだったんだ。
 毎朝、二人分のコーヒーを淹れること。淹れ終わってからようやく掃除を始める。特にトイレ掃除を念入りに。……これはまぁ、ぼくが所長となった今でも変わらない。
 感慨深く思いつつもぼくは小さな台所へと向かう。
 今でも自分でお茶を淹れることもあるけれど、もう一度千尋さんに淹れる日が来るとは思わなかった。
 台所に辿り付いたぼくは恐る恐る、けれども慣れた手つきでコーヒーを淹れる準備を始めた。
(過去をやり直している──ことになってるんだろうか?これは)
 する行動は一緒でも、ぼくにとってこれは二回目の行動だ。未来は変わらないと言ってもこのコーヒーは以前淹れたものとは違うものじゃないんだろうか……
 ぼんやりと考えを走らせていると、火にかけていたお湯が沸騰し始める。ぼくは慌てて火を止めると右手でスプーンを掴み、左手で棚からカップや砂糖を取り出す。
 ミルクたっぷり、砂糖なし。
 もう三年も前の事なのに右手は勝手に動いて千尋さん好みのコーヒーをちゃんと作り出した。習慣っていうのは一度染み付くとなかなか抜けないものだ。
 その間に視線を滑らせて戸棚に並ぶコーヒーを観察する。
 よく見てみればそれは、インスタントではなくちゃんとどこかのお店で買ってきたものだった。きっとコーヒーが好きな人の近くにいたからなんだろう。まあ、実際に淹れるのはいつもぼくだったけど。
 お盆に乗せようとしてまたあることにぼくは気が付いた。
 千尋さんの華奢な指にはあまり似合わない、千尋さんのコーヒーカップ。
 色は白いけれど形はシンプルで、何の飾りも施されていない。取っ手やその壁面が妙に厚くて無愛想で、無骨なイメージすら与える。
 しばらくそれを観察した後、ぼくはあるひとつの考えを思いついた。
(もしかして神乃木さん、の……?)
 正解かどうかは聞いてみないとわからないけれど。多分、正解だろう。自分のものにはお金をかけずにシンプルに、というのが千尋さんの信条だったけど、自分に似合わないものをわざわざ買い揃えたというのも考えにくい。
「センパイの、か」
 ぽつりと呟いてそのカップに褐色の液体を注ぐ。小気味よい音と湯気を立てて液体が流れ落ち、おいしそうなコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。
 毒を盛られて突然、植物状態になった人。その人の使っていたものを千尋さんはどんな思いで使い続けていたのか。
 気付けば、様々なことが全部意味のある重要なことだったんだ。
 ヒントは散りばめられていたのに、ぼくは何一つ気付くことができずに見過ごしてしまっていた。それは未来を知っているからこそ気が付くことができたんだと思うけれど。
 この頃のぼくは、追ってきた親友のこと。そして、弁護士という職業と業務に慣れようと、とにかく必死だったのだ。
 自分のことで精一杯だったぼくは、千尋さんのことを何一つ気に掛けることができなかった。
 九月五日の朝の、何も知らない間抜けなぼくは。
 所長にただ一言、おいしいと言わせたいがために必死になってコーヒーを淹れていただけだった。
 ──馬鹿だなぁ、ぼくは。
 声には出さず心の内だけで自分を笑う。
 今日の日の夜、彼女との永遠の別れが待っていることを全く気付きもしないで。こんなことを努力するよりももっと彼女と向き合って話をすればよかったのに。話を逸らされたとしても、どうにかして強情な彼女の口を割らせていたら。
 考えても仕方がないことばかり考えてしまう。ぼくは重い気分のままお盆にカップを乗せた。ガラス製の電気スタンドの横を通り過ぎ、彼女の元へと戻る。過去のぼくはこれが昨日、購入されたことに全く気付かなかった。今日の夜に割れて壊れてしまうそれは、増えたことに気が付かないほどこの事務所に馴染んでいた。
 千尋さんのセンスが感じられる、きらきらと綺麗に輝くガラスを数秒間見つめた後。視線を滑らせ、デスクにつく所長の姿に止める。
 まつげを伏せて千尋さんはそこにいた。
 朝の光が窓から入り込んできて、彼女の明るい色の髪を明るく照らしていた。
 ぼくは足を動かして彼女の前まで進むと小声で失礼します、と呟いて淹れたてのコーヒーをデスクの隅に置いた。その気配に気付き、千尋さんは短く呟く。
「ありがとう」
 細く長い指が白い取っ手に絡み、カップは音もなく持ち上がる。
 品よく歪められた唇がコーヒーを飲み込む時を、ぼくはいつもこうして前に立って見つめていた。彼女の次の言葉を待つために。彼女がぼくを誉める、ただその一秒を待ちわびて。
 その頃のぼくが千尋さんに誉められた時と言えば初めて勝訴した矢張の裁判と、美味しいコーヒーを淹れた時だけだったから。
「うん、おいしい。上手になったわね、なるほどくん」
 立ち上がる湯気に目を細め千尋さんは笑った。ぼくはそれにつられて笑う。
 ──馬鹿だなぁ、千尋さんは。
 ぼくを頼ってくれてたらよかったのに。来客の予定を、ほんの少しでもぼくに伝えていてくれたら、死ななくてすんだのに。
 笑いつつもぼくは、誉められた嬉しさの中にじんわりとした悲しみが滲んでいく事を止める事ができなかった。







 

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