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 トンネルを抜けきったように突然、視界がクリアになる。

 

「え?」
 ぼくは慌てて自分の足元を見た。確か床に倒れたはずだったのに。
 平衡感覚を失っていた両足はちゃんと地に付いていて、ぼくの身体をしっかりと支えていた。
 足元を確かめた後、首をさらに曲げて自分の身体を見る。妙に背中が重い。何かと思えば通勤で使っているリュックだった。
 きょろきょろと辺りを見回して、今度は自分が立っている場所を確かめる。見慣れた……というかもう見飽きたと言っていいだろう景色。ホテルと事務所の間に存在する道路だ。
 これ以上首を回す必要もないだろう。ぼくは正面に戻ってきた顔を上向ける。──そして。
「なるほどくん?」
 突然背後から声をかけられ、ぼくはひゃあ!と何とも情けない叫び声をあげてしまった。呼び掛けに叫び声が返ってきて相手も驚いたようだ。小さな悲鳴がぼくの耳に遅れて届く。ぼくは激しく脈を打つ心臓を右手で押さえ、その人を振り返った。
 向き合ってからもう一度首を捻り、事務所の窓を見上げる。
 そこに掲げられていたのはぼくの名前ではなかった。
 三年前に主が変わったはずなのに、そこに記されているのは前所長の名前。
 考えるまでもなかった。ぼくが一番帰りたいと、戻りたいと、やり直したいと思っている時間と場所。
 ぼくの目の前には千尋さんが立っていた。
 黒いスーツに黄色いスカーフ。栗色の髪。その中心にある茶色い瞳が丸くなってぼくを見つめ返す。真宵ちゃんの身体でも、春美ちゃんの身体でもない、二十七歳の千尋さんが首を傾げてぼくを見つめていた。
「どうしたの?事務所の前でぼーっと立って」
 千尋さんは流れ落ちた長い髪を左手で払いつつぼくに尋ねる。
 その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先を通る。思わずぼくはそれに心から感心した。……匂い付きの夢なんてあるんだなぁ。
「何?」
 じろじろと無遠慮に注がれるぼくの視線に気分を害したのか、千尋さんは右手でぼくの肩を軽く小突くとビルの階段を登り始めた。ぼくは慌ててその後に続く。
「鍵忘れて中に入れなかったの?もう、弁護士なんだからしっかりしなさいよ?」
 厳しい言葉。でも、声色は優しい。それは確かに千尋さんのもの。
 視線を落とす。
 白い靴からすらりと細い足が伸び、彼女の身体を運んでいた。今度は視線を上げると、背中辺りにまで伸びた髪がさらさらと揺れていた。
 死んでしまったはずの千尋さんがぼくの前で動いて生きている。 真宵ちゃんと春美ちゃんの力を借りずに。
 事務所の扉の前に到着した千尋さんは、鍵を取り出して扉の小さな鍵穴に差し込んだ。
 ぼくはその後姿にずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「千尋さん。……今日って何日でしたっけ?」
 返事はすぐ返ってこなかった。代わりにカチリと鍵の開く音が耳に届く。
「もう!まだ寝ぼけてるの?」
 千尋さんは振り返ったと同時に手を伸ばしてぼくの額を叩いた。痛い。痛みを感じる夢もあるんだ、とまた感心してしまった。彼女の目が無言のままじっとぼくを捕らえる。その瞳に向けて西暦何年ですか?とぼくが続けて聞くとその瞳からふっと力が抜けた。
 あきれたのだろう、千尋さんははぁと一回ため息を落とした。
 そして両腕を組んでぼくを見上げる。その仕草に促されてまた彼女の身体から甘い香りが香った。
「二〇一六年の九月五日よ」
 そして彼女は何のためらいもなく、自らの命日となる今日の日付を答えた。







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