ぼくと千尋さんは何か言葉を交わすわけでもなく、ただぼんやりとしていた。
今は過去の世界ではない。あのツボは、春美ちゃんが大事そうに抱えて里に持って帰ってしまった。
千尋さんは亡くなった人として真宵ちゃんの身体を借り、ぼくの隣に立ち空を見つめる。ぼくも彼女の隣に立ち、空を見上げていた。突然の再会に驚くこともなく、ただぼんやりと。今更驚くこともない。彼女の登場はいつだって突然だ。──最後だって、あんなに突然だったのだから。
真宵ちゃんよりも近くにある横顔をそっと窺いながら、ぼくは考える。
思えば、ぼくと千尋さんの間にはいつも距離があった。
千尋さんは一人、秘密を抱えて逝ってしまったわけだし、ぼくだって御剣のこと、矢張のこと。全く話せていない。距離を近づける間もなく、現実的に距離はさらに開いてしまったまま今に至る。
いつかこの距離を無くす事ができたのかもしれないし、やっぱりできなかったのかもしれない。ぼくと彼女がお互いの距離をはかるうちに神乃木さんの目は覚め、千尋さんは彼のもとに戻っていったのかもしれない。ある意味、今よりももっと遠い存在になっていたのかもしれない。もしも、彼女があの日死んでいなかったら。
もしも、なんて言葉は不毛なものでしかないけれど。やっぱりぼくはその言葉を使わずにはいられない。
ぼくは前を向いたまま口を開いた。
どうしても、謝罪を。自分の、懺悔を。
「──あの日」
声が震える。声が、続けられない。ぼくは震える声を絞り出すようにして、やっと呟く。
「助けられなくて、すみませんでした……」
言葉にした途端、悔恨が胸を浸す。悲しみが、後悔が増えて溢れて涙になる。
ふと空気が揺れた。千尋さんがぼくを見たのだと、ぼやける視界の中感じた。
「どうしてあなたが謝るの?」
それは問い掛けというよりも、詰問のようだった。驚きに心が冷える。瞬きを繰り返して視界をはっきりさせ、千尋さんの顔を改めて見つめた。彼女は険しい表情でぼくを見つめていた。
「いつまでも私の死を引きずらないでちょうだい。私はあなたのために生きていたわけけじゃないし、あなたのせいで死んだわけでもないのよ?」
回り道のまったくない切り替えされて、ぼくは言葉を失ってしまった。驚きで涙も止まる。
それと同時にまるで自分本位の考えで彼女の死を扱っていたことに気付き、どうしようもなく恥ずかしくなった。
確かにそうだ。ぼくが彼女の何もかもを救えるはずもない。
うろたえて彼女の顔をもう一度見た時。ぼくはさらに言葉を失う。
千尋さんは微笑んでいた。あきらめのような、ひたすら寂しげな笑みを唇に乗せて。そして静かな声でこう囁いた。
「そうでもしないとやりきれないでしょう?」
そっと自分に彼女が触れた。引き寄せるわけでもなく、握るわけでもなく。ぼくの指先に自分の手を当て、千尋さんは目を伏せて微笑む。
「なるほどくん。お願いだからそんなに自分を責めないで。私は、大丈夫だから……」
その表情に、ぼくは。
声を上げて泣いてしまいたかった。一番に嘆きたいのは彼女自身のはず。なのに、死んだ今でも微笑める彼女に、どうしてぼくはこんなにも甘えてしまうんだろう。
そして、どうして、ぼくは何も気付けなかったんだろう?
彼女だって強さと弱さの両方を持っていたはずだ。あの頃のぼくは強さだけを見て、弱さの存在なんて全く知らなかった。知ろうとしなかった。彼女の弱さをぼくが気付いて、もっと力になれていたら。強さの後ろに潜む弱さに気付ければ、よかったのに。
涙がどんどん溢れて、情けないと思うのに、それは全く止めることができなくて。ああ情けない、と自分を恥じれば恥じるほど居た堪れなくなって。ずるずると激しい音を立てて鼻をすするぼくに千尋さんはふっと苦笑する。生前と同じ、所長の顔で。
「鼻を拭きなさい」
「す、すみませ……」
どっかでみた光景だぞこれは、と思いつつぼくは慌てて手の甲で流れ出そうとする鼻水を鼻の中に押し戻そうとした。その無謀な行動に千尋さんはくすくすと笑い始めた。馬鹿ね、と優しさの滲んだ声で囁くと。
「ハンカチはあなたにあげたはずよ?」
にやりと意地悪く笑われて、ぼくは目をぱちぱちと瞬きさせた。片手をズボンのポケットに突っ込み、確認してみた。出てきたのはくしゃくしゃになったハンカチ。ぼくのじゃない、確かこれはあの時、千尋さんにもらった白い──…
夢だったはずなのに。
あの時の優しいやり取りを思い出して、新しい涙が溢れてきた。全てが後悔で支配されていた心に温かみが蘇ってくる。過去の千尋さんにもらった笑顔が。言葉が。抱き締めた身体の体温が。夢だったのか、現実だったのか、どちらかわからない。わからないけれど、助けることのできなかった自責の念と、もう一度生前の彼女に触れたわずかな時間がぼくの中に同時に存在していた。
過去の世界でぼくは、 後悔だけを拾ってきたのだと思っていたのに。でもそれだけじゃなかったんだ。いろいろな事が混じって、もうわけがわからない。わからないけれど、ぼくは。
後悔するためだけに、生きていくのはもうやめるんだ。それは自分のために。そして何より彼女のために。
過去に行ってした経験は、自分の無力さを悔やむためじゃなく、前に歩いていくための糧にするためのものだったと。
そう思うために。
「みてて、ください……ぼくは」
詰まってしまう声を何とかしっかりさせ、ぼくは言う。涙を飲み込んで鼻水をすすり、顔を上げて目の前の千尋さんを見つめた。千尋さんもぼくを見返した。
ぼくは息を吸い、また吐いて。自分の意志を口にする。
「千尋さんを越しますから」
彼女は、その言葉に。
少し怒った顔で生意気ねと言いぼくを睨むことも、悪戯っぽく笑ってあなたにできるのかしら?と首を傾げることもしなかった。
深い瞳で一度頷く。そして柔らかな声でそうね、と一言呟いただけだった。
組まれていた腕が外された。細い指がぼくに向かってくる。声と言葉と、温かい指がぼくに絡まる。
「強くなりなさい、なるほどくん。今度は後悔しないように」
もう二度と、後悔をしないように。
千尋さんはぼくの頬に両手を添え、自分の元へと静かに引き寄せた。二人の距離が近付く。
「最後の命令よ」
いい?と言って千尋さんは、今までで一番近い距離で微笑んだ。
目を閉じると縁に溜まっていた涙が頬を伝った。悲しみと淋しさが次から次へと湧き出てきて、それに胸が潰れそうになる。
それでもぼくは唇を微かに動かした。息を吸い込んで涙を堪えて。
はい、千尋さん。
そしてそう短く返事をした。
彼女の吐息と温度がぼくの側から消えて、他人のものに変わってしまっても。ぼくはずっと目を閉じていた。彼女に誓ったことを守るために、ずっと。