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 ぼくは見ていた。沈んでいく太陽を、じっと。
 過去の世界で彼女がそうしていたように。窓際に立って空を見上げて。
「なるほどくん」
 背後から呼ばれ、ぼくははっとして振り返った。真宵ちゃんがその勢いに驚いた様子で首を傾げる。
「真宵ちゃん……」
 自分も呼び返して、相手を確かめる。
 ああ、そうだ。あれは夢のことだったんだ。千尋さんはもう三年前に亡くなっている。今もぼくと一緒にこの事務所にいるわけがないじゃないか──
 すっと空気が動く。気がつくと真宵ちゃんもぼくの隣に立って空を見上げていた。
「なんか空が近いね」
「そうかな」
 そう呟いてまた見上げる。
「里から見る空に似てるよ」
「どこから見てもみんな同じだろ、空なんて」
「なるほどくん、情緒ってものを知らないね!」
「何だよそれ」
 いつものやりとり。ほっとするのと同時に少し悲しくなった。千尋さんを介して知り合うはずだったぼくたちなのに、結局千尋さんと三人で会うことはなかった。そして、二人だけで過ごす時間の方が今ではとても多い。
「里の空はもうちょっと綺麗だけどね」
 声を少しだけ低くして、ぽつりと呟いた真宵ちゃんを思わず見つめる。千尋さんの横顔が重なって見えた気が一瞬だけした。
 そう言えば真宵ちゃんももう二十歳になる。時々大人びる表情が、彼女を思い出させることが最近よくある。この子はあの人の妹なんだから当然と言えば当然だ。
 あの時。一人空を見上げていた千尋さんも、この空とどこかの空の風景を重ねて見ていたのかもしれない──
「お姉ちゃんに会ったの?」
 ぼんやりとまた空を見ていると、真宵ちゃんがそう尋ねてきた。さらりと、普通の口調で。
「うん」
 ぼくもまた普通の口調で返す。でないと、悔恨で胸が千切れてしまいそうになるから。胸の代わりに何ともなっていないはずの手が、痛んだ気がした。
 真宵ちゃんはそっか、と短く呟くと窓枠を両手で掴み、上体を少し仰け反らせる。首を傾け、隣に立つぼくの顔を見上げた。
「……真宵ちゃんも過去に行きたいの?」
 不思議に黒く光る瞳に、ぼくはそう問い掛けた。響いた声の弱さに自分で驚く。はっきりと言わなかったものの、ぼくが過去と呼んだのはあの夜のことだ。あの夜、千尋さんの命日。九月五日。
 あの悲しいだけの日をもう一度、経験したいと思うのか?
 そんな疑問を胸に持っていたからだ。
 真宵ちゃんは瞳を右側にずらす。ぼくから視線を外ししばらく考えた後。一人納得したようにうん、と頷くとまたぼくを見上げた。
「そうだな。あたしもきっと、あの頃に行くんだと思う」
 その答えにぼくは声を失う。予想していたはずの答えだったのに。
 ──やっぱり真宵ちゃんも?
 あの夜を後悔しているんだろうか。あの夜の、あの数分間の、あの悲劇を自分の中でずっと、繰り返し繰り返して。
「違うよ、なるほどくん」
 真宵ちゃんはぼくの考えを見透かしたようにそれを否定した。窓の外に向けていた身体をぼくの方向へと向き直させる。
「あたしはあの夜には行かない。行くとしたら、その次の日あたりかな?」
 次の日。ぼくは記憶を遡らせて考える。
 九月六日といえば事件の翌日だ。真宵ちゃんは血文字のメモを発見したイトノコさんに逮捕され、留置所に拘束されていた。
 そんな日に、なぜ?
 疑問を含んだ目でぼくは真宵ちゃんを見下ろした。真宵ちゃんはぼくの目をまっすぐに見つめ返し、ふふっと笑う。楽しくて浮かべるものとはまた別の、悲しげな笑顔で。
「あの時、ここでお姉ちゃんを見つけた時ね。ほんとにもう駄目だと思ったの」
 お母さんはよく知らないし、お父さんも死んじゃってるし、おばさまもね?あんな感じだし。お姉ちゃんだけがあたしを守ってくれてたのに、あんなことになって。
「……もう無理、もう駄目だーって思ったの」
 ふざけた口調でそう言う。ぼくは彼女の笑みにつられて笑うことなんてできなかった。同情を彼女が喜ぶわけない。そう思っていても、哀れみを隠すことがうまくできなかった。
「でもね」
 真宵ちゃんは口調を崩すことなく、向き合うぼくの表情を気にすることなく、変わらず明るい口調で言葉を続けた。
「あの日、留置所で刑事さんにも散々疑いの目で見られて。で、いきなり面会だって呼び出されて行ったら一番最初にあたしを疑ってた弁護士さんが待ってて」
 ぼくは彼女の言葉を否定することはできなかった。かわりに苦笑が浮かぶ。暗闇の中で、すすり泣く真宵ちゃんを初めて見たぼくは。正直、真宵ちゃんを疑ったことも……ないとは言えない。今となっては笑い話にできるけれど。あの時、あの絶望の中で彼女にそんな思いをさせていたかと思うと胸が痛む。
「頼んでた偉い先生にも弁護断られちゃったって言われてね。ほんともう……目の前が真っ暗になったんだ。でもでも、そしたらね、その弁護士さんがぼくが君を弁護する!って言ってくれたんだ」
 黒い目を細め、真宵ちゃんは笑った。さっきのものとは違う。本当に、心底嬉しい喜びの笑顔が彼女の表情を染め変えていく。
「それからその人はあたしを助けてくれたんだ。ぼくはきみの味方だから、って。見捨てることはできない、って。まだ、全然あたしのこと知らないくせに。自分もひよっこのくせにね」
 最後に付け足された、真宵ちゃんらしい一言にぼくは笑う。自然に表情を崩したぼくに真宵ちゃんはさらに笑いかける。
「まだ、あたしをほっとけないって、守ってくれる人がいるんだって。それがすごく、すごく嬉しかったんだ。それがあったからあたしは泣かないで頑張れたんだよ。その時だって……今だって」
 孤独の中に差し伸べられた一人の手が、どんなに心強いのか。
 それはぼくも知っている。その時の喜びはいつまでもこの胸に残り、いつだって胸の中で褪せない思い出として強く綺麗に輝き続ける。
 ──真宵ちゃんはその瞬間を、自分の中で繰り返し繰り返して生きているんだ。後悔をして過去を省みるよりも、未来を見続けて前に進む。
 小柄な少女がぼくを見上げる。初めて会った頃とはまるで違う、凛とした表情。近しい人を無くした悲しみと完全な孤独を知りつつ、前だけを向く強さを持つ。千尋さんとよく似た、けれども全く違う強さを持つ人間。
 そして、真宵ちゃんはこう宣言した。
「あたしは、後悔するために、過去に戻るなんて絶対にしない」
 瞳に気圧されたぼくは無言で彼女を見つめ返す。ぼくと彼女の目が正面から合った瞬間。
 真宵ちゃんの目がふっと翳った。声も少しだけ、弱まる。
「……後悔ばっかしてても、もう何もできないよ?そんな、どうしようもないのに後悔ばっかりするのは……可哀想だよ」
 真宵ちゃんの独り言のような呟きを聞きながらぼくは、違うことを考えていた。
 ああ、同情心ってやつはとても、わかりやすいものなんだな。
 自分に向けられている同情の念は、他人が気を遣って隠し通そうとしても隠し切れるものではない。
 ──真宵ちゃんの言う、可哀想な人とはぼくのことだ。
「可哀想だもん。……お姉ちゃんも」
 真宵ちゃんは消え入りそうな声でそう呟いた後、沈黙した。ぼくの心には彼女の言葉だけが残った。
 いつのまにか太陽は全て消えていて、星の光すら見えない空の闇に真宵ちゃんのため息が吸い込まれていった。







 

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