自然の光はもう全て消えうせ、代わりに人工的な光がぽつぽつと道を照らす。その中をぼくは走っていた。
事務所まであと少し。今は七時半。少し遅くなってしまったけれど、約束の時間には間に合う。そうわかっててもぼくは走った。自分が経験した未来とは異なる未来をひたすら夢見ながら。あの時彼女が生きていたら、どんな言葉を言うだろう?どんな笑顔を浮かべるだろう?そんなことをとりとめもなく思い浮かべながら、ぼくは走る。早く早く、早く彼女の側に。
ようやく事務所の前に到着し、ぼくは足を止めた。運動不足がたたってか、ぜいぜいと肺を鳴らしながら窓を見上げた。と、同時に。気付く。
電気が……消えている?
ひやっとした空気を首の後ろに感じた。千尋さんがいない?そんなはずはない。だって、ぼくと約束したのだから。
目を凝らし、もう一度窓を窺う。人気が全くない。と、思った瞬間に。
「!」
ぼくは大きく息を飲んだ。電気の消えた暗闇の中に人影を見た気がしたからだ。しかも二つの。
時計を見る。事件があったのは午後九時近く。その時間までにはまだ余裕があるはずなのに。
どうして。
それはもはや疑問の形にはならない。どうして、と疑問に思っても答えは出ないのだから。
ぼくは弾かれたように走り出し、ビルの中へと駆け込んだ。そのままの勢いで階段を駆け上がる。辿り着いた事務所の扉はぼくが出てきた時と何の変わりがなかった。物を言わずに、ぼくと彼女を隔てる扉に嫌な胸騒ぎを感じる。
(千尋さん!!)
そう叫んだつもりだった。が、声が出ていなかった。
ドアノブを掴む。思い切り回して──でも開かない。
「鍵……!」
ジャケットのポケットに右手を乱暴に突っ込んでみた。けれど目的の物は見つからない。階段の途中で投げ出した鞄の中にあることを思い出し、ぼくは舌打ちして床を蹴る。中の物が次々と落ちていくのも構わずにぼくは奥にあった事務所の鍵を引っ掴んで小さな鍵穴にそれを差そうとした。焦りでなかなか上手くいかなくて、何度か周りにぶつけた後。ようやく差し込んだ鍵を回してから再度ドアノブを掴む。
「!」
確かに鍵の開く、軽い音がしたはずなのに。
耳を叩くような大きな音を立てて扉は開く事を拒んだ。押したらすぐに開くはずなのに、どうして。
原因を考える余裕も無くぼくは、何度も何度もドアノブを回す。扉は開かない。回す。開かない。全体重を掛けて扉を押す。でも──開かない。
「千尋さん!千尋さん!?」
ぼくは開ける事をいったん諦めてその扉を拳で叩いた。両手で何度も叩く。派手な音と大きな声がすればあいつは外に誰か来た事に気が付くかもしれない。そうすれば千尋さんは助かる。助かるんだ。
「千尋さん!!」
思い切り扉を叩く。けれども中からは誰も出てこなかった。……もしかして誰もいない?そんなはずはない、確かにぼくは人影を見た。そしてこの嫌な予感は気のせいでは片付けられない。
もう一度叩こうと拳を自分の方に引き付けた時。微かに……でも確かに聞こえた。人の話し声。
ぼくは弾かれたように扉を、そしてその奥を睨みつける。
千尋さんは、いる。まだ生きている。早く、早く中に入って助けないと。
「ち……」
息を吸い込んでまた声を発そうとした瞬間、中で何かが砕ける音がした。
ガラスのスタンドが倒れた音だと気付いたぼくは思い切り叫ぶ。
「千尋さん!!」
部屋の中からまた音が響いた。物が落ちて床にぶつかる音。室内を走る足音が二つ。それは千尋さんと小中の。室内で今まさに事件が起こっている。ぼくは中に向かって思い切り叫んだ。
「千尋さん、千尋さん……ッ!!」
千尋さん千尋さん千尋さん───そう連呼して扉を叩いて。
扉に体当たりしてノブを何度も回して。けれども扉は開かない。彼女に届かない。
気付いたら扉に赤い色が点々と付着していた。何度も強く叩きすぎて握った拳が割れたらしい。それでもぼくは開かない扉を殴り続けた。痛みなんて感じなかった。必死だった。
「なんでっ……」
叫び過ぎで呼吸が止まりかけた。吐き出した声が詰まる。息を吸うのも忘れるくらい必死に、ぼくは彼女の名前を呼んでいた。
「何で、開かないんだよ!!」
咳き込みそうになりながら、そう叫んだ。そしてまた扉を殴り付けて。
千尋さん千尋さん千尋さん千尋さん───
何度も呼んでいるのに、何度も開けようとしているのに。どうしてぼくは彼女の元に行けない?
叫んでいるつもりなのに声は出ていないように感じた。叫んでも喚いても何ひとつ中には届いていない。
どうして、開かない、届かない。
──やっぱり、ぼくはどうしても彼女を助けられないんだ。
「千尋さん!!」
大きな声がようやく出た。
ぼくは自分の声で目覚めた。視界に移るのは天井。開かない扉でも、暗い事務所でもない。首を動かして辺りの様子を窺うと差し込む太陽の光が目を圧した。あと、ソファに寝転ぶぼくを心配そうに見守る真宵ちゃんと春美ちゃんと。
それを見てぼくは気が付いた。過去から今に戻ってきたのだと。
手足が重かった。まるで水分を吸ったかのように。起き上がる気力も無くぼくは、横を向いていた顔をもう一度戻した。事務所の天井を見つめ唇を動かす。
「……ひろ、さ……」
声は掠れて言葉にならなかった。
一旦言葉を切り、からからになっている口の中と喉を潤そうと試みる。けれどもそれはうまくいかず。それでもぼくは唇を動かす。そして呟く。
「……ごめん、ちひろさん……」
助けられなくて、ごめん、千尋さん。
歪んだ視界の隅で、何か言おうとした春美ちゃんとそれを制した真宵ちゃんが見えた気がした。ぼくはそれを確かめずに投げ出していた右手を自分の上に運ぶ。しわくちゃになった白いシャツが見えた。扉を叩き、血を流していたはずのぼくの手は何ともなっていなかった。
全部夢だったんだ──…
そうは思っても、胸を支配する喪失感と無力感は消え去らない。夢ならいっそ、全部消えていってくれればよかったのに。
まぶたにその手を押し当てると、促されて頬に流れ落ちた水滴が耳をくすぐった。