千尋さんは無言だった。ぼくは心に湧き上がる悲しみを涙に変えて、何度も懇願した。
お願い、会わないで行かないで。
ぼくは腕の力を抜く。もう、強く彼女を捕まえることすらできない。声で訴えることくらいしか、もう。
しばらくして。二人の間にふっと落とされるため息。
ぼくはそれに促されるように顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになった目を細め、正面に立つ彼女の表情を必死に窺おうとした。
「……いでっ!」
思い切り顔に何かを押し付けられた。思わず後ずさってそれを確認する。それは千尋さんの白いハンカチだった。
「鼻を拭きなさい」
いつもの所長の顔で千尋さんは言った。条件反射か、ぼくははいっと叫んで布を鼻の下に押し付けた。
「よくわからないけど……わかったわ」
泣きすぎで耳がおかしい。そのせいで千尋さんの呟きがすごく遠くに聞こえて、ぼくは慌てて聞き返した。
「会わないんですか!?」
違うわよ、と千尋さんは眉をしかめる。
「私は予定通り、小中大と会います。話が終わるまであなたは事務室で待ってなさい」
「ぼ、ぼくもここにいていいんですね?」
思わず声が高くなった。千尋さんは腕を組み、呆れた顔で同席は許可してないわよ?と興奮するぼくを諌めた。
「何だか納得できないけど……仕方ないわね」
喜びの感情のまま声を上げて抱きつきたい気分だったけれど、目の前の千尋さんは冷ややかな視線をぼくに向けてきていた。ぼくは何もできなくなって、代わりに借りたハンカチをぎゅっと握り締める。
やれやれ、と言ったようにまたため息をついて千尋さんはぼくから視線を外した。扉近くに投げ出したぼくの鞄からはみ出している封筒に目を止め、千尋さんの表情が驚きに変わる。外された視線はすぐにぼくの方へと戻ってきた。
「あなた今日一日何してたの!?」
そう言われてぼくもはっと我に返る。
千尋さんの命を救うことばかり考えていて、言われていた仕事にはまったく手をつけていない。
言い訳したくても今日のことをうまく説明できる自信はないし、第一千尋さんは厳しい人だ。言い訳なんかしても心象を悪くするだけだ。
「すすすみません!」
慌てて走って鞄を拾い上げ、腰を曲げて頭を勢いよく下げた。
「困ったわね……それだけはどうしても、今日中に届けてほしかったんだけど」
封筒を指差して千尋さんは何度目かのため息をつく。その中に、あきらかに失望の色が感じ取れてぼくは最高に焦った。
「じゃあぼく、これだけ届けに行ってきます!」
封筒の表に書いてある住所を確認する。ここならば電車で三十分くらいで行ける。一時間ちょっともあれば行って帰ってくることができるだろう。
封筒を腕に抱え、気が付いた。そういえばハンカチを借りたままだ。握っていた手を千尋さんに向け、それを返そうとして……止まる。つられて手をぼくの方に差し出し、返されるのを待っていた千尋さんが苦笑した。
「あげるわ、それ」
「すみません……」
綺麗に折り畳まれていたはずのハンカチは、見る影もなくくしゃくしゃに丸められていて。恥ずかしくなってぼくは、それを握り締めたままズボンのポケットに突っ込んだ。
「まったく……子供ね、なるほどくんも。妹みたいだわ」
「ま、真宵ちゃんと一緒にしないでくださいよ!」
そう即座に言い返してしまい、しまったと青ざめた。千尋さんはきょとんとした後、盛大に笑い声をあげる。
「今日、二人を会わせるのが楽しみだわ。あの子、なんて言うかしら」
その言葉にぼくは、真宵ちゃんの顔を思い浮かべた。
少し前まで一緒にいたのに、なぜかとても懐かしい。出会い方が違っても、今みたいに彼女はぼくになついてくれるだろうか?
「さ、早く行きなさい。帰りが遅くなるわよ?」
ぼくは緩めていた口元をさっと引き締めると鞄と封筒を一緒に抱え直す。そして扉へと歩き出した。
もう一回、鼻をすすって事務所の扉に手をかけて。ぼくはそれを開く前に一度振り返る。千尋さんは、最初に帰ってきた時と同じように日の光を背にし、ぼくを見送っていた。茜色の光の中、柔らかい笑みを浮かべてぼくを見つめていた。
ぼくは最後に、彼女に向かって静かに問い掛ける。
「どこにも行きませんよね?」
千尋さんの肩が揺れる。くすりと小さく笑ったようだ。
「行かないわよ」
ためらいもなく返ってきた言葉にぼくは念を押す。
「絶対ですね?」
「絶対よ。ここで、あなたを待ってるわ」
落ち着いた声。絶対的な自信。揺るぎのない信念と微笑み。
ぼくが尊敬する弁護士・綾里千尋がそこにいた。大切な人のために、巨大な悪へと一人立ち向かう彼女が。
「千尋さん」
名前を呼んで。頑張ってください、と言いかけてやめた。
「……いってきます」
少し悩んだ後。結局いつもと同じ言葉を事務所に残した。もう少ししたらぼくもここに戻ってくるのだから。彼女を守るために、ぼくもここに。
「いってらっしゃい」
千尋さんは答えた。そして、いつもと同じように優しい笑顔でぼくを送り出した。
扉を閉める瞬間。扉が閉まる瞬間。千尋さんの姿がぼくの視界から消える、瞬間に。わずかな不安が胸を掠った気がした。
──未来は変えることができません。
誰かが頭の隅でそう囁いたような?そんな気がした。でもそのすぐ後に、千尋さんの言葉が千尋さんの声で甦る。
──ここで、あなたを待ってるわ。
大丈夫、大丈夫。千尋さんはぼくにそう約束をした。
大丈夫、ぼくが彼女を守るんだから。
自分に無理に言い聞かせてぼくは扉を閉めた。ぱたりと音を立て扉は完全に閉まり、ぼくと彼女を隔たらせた。
その小さな不安を無視したこと。
不安を感じたならば、無視せずにそのまま事務所に残るという選択肢もあったのに、それを無視したことを。彼女の言葉を全部、信じたことを。
その後、ぼくは長く深く後悔することとなる。