薄汚れた床。壁。散らばったカード。ぼんやりとした光を放つ照明。青いニット帽。
 全てがコマ送りのように流れて私の視界へと届き、私は今の自分の状況を認識した。と同時に真下から見上げる双眸に驚いた。無言のまま私を見つめる成歩堂の瞳にはやはり何の色も浮かんではいない。テーブルに乱暴に押し倒されたこんな状況であっても。
「……何のつもりだよ。負けたらすぐに追い出すって言っただろ」
 そう言いつつも成歩堂の手は圧し掛かる私の身体を押し返そうともしない。ただ、気だるげに瞬きを一度しただけだ。
 ここまで数分間、彼と向き合っても私はいまだ信じきれない気持ちでいた。この男は本当に成歩堂龍一なのだろうか?同じ疑問ばかりが頭を巡る。そんな答えの出ない疑問に一人かまけていたせいで、手持ちのカードをうまく捌くこともできずに無様にも敗北し、今に至る。
 負けたことに逆上したわけではない。私が認められないのはそんなことではなく。
 成歩堂はテーブルに倒されたまま私を見上げる。抵抗らしい抵抗もしない。押し倒された際、肩を掴む私の腕を不満げに見たものの、それだけだ。彼の顔に留まった私の視線に気付くとふっと淡く微笑んだ。その表情に労わりも優しさの欠片もない。
 本当に?
 また同じ疑問だ。答えなどわかりはしないのに。
 何度見ても打ちのめされる。変わり果てた風貌。それだけではなく、変わり果てた態度。仕草。
「なぜだ……」
 呻くように呟く。私は数回繰り返した疑問を、もう自分の中に収めておくことなどできなかった。
「何故、このようなことになっている。教えろ、成歩堂」
 思いのほか低い声が出た。そして、意外にも平坦な口調だった。言い切った後に気付く。今にも溢れそうになる激情を抑えるために私は声を潜めるしかなかったのだ。
 成歩堂の虚ろと言っていいほど全く色のない瞳が瞬間、消える。ゆっくりとした瞬き。再びのぞいた双眸の色に私はまた打ちのめされた。
「何が?」
 彼の乾いた唇が発した、淡々とした返事はやはり私が望んだものではなかった。私の疑問に何一つ答えていない。そして、答えようともしない。最初から相手にしようとしていない。
 絶望と同時に激情が湧き上がった。
 何を言っているのだこの男は───
 その昔、私について書かれた新聞の記事に成歩堂は憤慨したと聞いた。その記事を見、自分の中に生まれた疑問を解き明かすために行動に出たと。再会した当初、彼の口からその事実を聞き私は鼻で笑った。しかし、今なら、よくわかる。
 こんなのは認めない。これは成歩堂龍一ではない。
───……っ」
 肩を押さえていた手を外し、乱暴に顎を掴み上げた。わずかに開いた唇に口付ける。勢いが強すぎて歯と歯がぶつかったのを感じたが、私はやめなかった。彼も嫌がらなかった。
 唇から覗いていた赤い舌を脳裏に描きつつ自分の舌を突き入れる。すぐに目的のものに触れた。遠慮せずに思い切り吸ってやる。その舌は抵抗もせず、そして絡もうともしなかった。それだけで私の感情はさらに燃え上がる。顎を強く掴んでもっと深く口付ける。指に当たる彼の顎の皮膚。ざらついた感触に腹が立つ。
「何だこの髭は……!だらしがない」
「めんどくさくてね」
 思わず唇を外して怒鳴りつけてしまった。成歩堂は濡れた唇を歪めてそう言い返した。
 何を言っても返ってくるのは似合いもしない擦れた言葉だけだ。余計に苛立った私は言葉で意思の疎通を行うことを諦め、再度荒く口付けた。昔に交わしていたキスとは全く違う。相手の意を探るような確認も愛情を伝えるような優しさも全くない。彼の舌がどのような動きをしていたのか、気に掛ける余裕もなかった。ただ夢中で唇に触れて舐めて吸った。
 しばらくそれを繰り返した後、私はようやく唇を離す。胸の中を荒らす感情は全く納まっていなかった。が、これ以上は呼吸が続かなかった。短い呼吸を繰り返して肩を上下させる私の身体を成歩堂が初めて押し退けた。はっとして彼の顔を見返す。
「がっつくなよ変態。……苦しいだろ」
 不愉快そうな、そして呆れるような。判断が付きづらい表情で成歩堂は私を見ていた。睨んではいなかった。そこまでの意思は、瞳の中には見つけることができなかった。
 私の吐き出す息を顔を背けて鬱陶しそうに避ける。しかし、やはりそれだけだった。私の指が彼の許可なく羽織っているパーカーの前を開いても、咎める視線も嫌がる素振りもなく。成歩堂は身体を起こすこともせずぼんやりと空を見つめていた。衣服を捲って肌を晒す。現れた胸の先端に指の腹を擦り付ける。口に含んで先程のキスを同じように吸ってやると成歩堂は微かに呻いた。
「変わったな、君は」
「そう?」
 私の独り言のような囁きにふっと成歩堂は微笑む。微笑む、と言葉にすれば何も問題のないこと。しかし浮かべる表情は酷いものだ。
「前に君に言われた言葉だ」
「忘れたよ」
「すぐに思い出させてやる」
 その宣言と同時に私は彼の下の服も剥ぎ取った。





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