「成歩堂さん!」
眠りの世界に指が掛かり、もう少しで落ちる前に……突然呼び戻されてしまった。ソファに横たわり、肘掛の部分に頭を傾けて。完全に寝ようとしていたぼくは重たいまぶたを持ち上げて大声の持ち主を見た。
「何やってるんですか!」
「……いいからちょっと、ボリューム落としてくれないかな」
髪の毛を二束、ぼくとは違う方向へと立たせているのは王泥喜法介をいう後輩だ。声の勢いそのままにずかずかと部屋の中に足を踏み入れてきた。
ひとつ年下で、真ん丸の瞳が童顔に拍車をかけている。ぼくも目のせいで幼いとよく言われるけど、彼はそれ以上だった。まだ中学生でも通るだろう。手足はがっしりとしているけど上に伸びる気配はあまり感じられなかった。これから成長期は迎えるだろうけど、目覚しい成長は望めそうにない。予想だけど、多分。
そんな勝手な解釈を心の中でしているぼくを王泥喜君は怒ったような顔で見下ろしていた。その視線に脅迫されているような気分になってきてぼくは、重たい身体をやっと持ち上げた。
「なんでいつも寝てるんですか」
上半身を起こし、ソファに座る姿勢をとったぼくを無言で観察した後、王泥喜君は再び口を開く。疑問というよりは責めているようだった。
「勉強しすぎたんだよ」
「勉強?なんかテストでもあったんですか」
どいつもこいつも、ぼくがテストもないのに勉強するのは異常だと思っているようだ。牙琉といい、王泥喜君といい。そういえばこの二人、中学が同じで部活動も一緒だったらしい。
「なくても勉強してたんだよ」
「へぇ。エラいですね」
興味がないといった様子で王泥喜君はスパゲッティの上に浮くフォークをいじる。この部屋には様々な道具が放り込まれていて、彼の興味を引くものはたくさんありすぎるのだろう。
部活動のために用意されたこの部屋は、狭いながらもソファもピアノも観葉植物も置かれている。それ以外にもシルクハットや人を中に入れて切る箱、紅茶を入れているポット。全部がマジックに使う道具だった。
別にここはマジックを行う部でもない。部長が自称・大魔術師でその道具を部室に持ち込んでいるのだ。王泥喜君は以前演劇をやっていたぼくを目指してここに入部したのだけれど、ぼくはもうすでに足を洗っていた。今はなぜだか弾けもしないピアニストの役目をおっている。そしてここは特にこれといった目的もない部となり、なんでも部みたいになってしまっていた。
放課後に、集まることは集まるけどぼくは寝ていることが多かった。王泥喜君はそれが不満らしい。
「王泥喜君も勉強した方がいいんじゃない?」
「俺は大丈夫です!」
世間話のつもりで振った台詞に鼓膜が破れそうになるくらいの音量の回答が返ってくる。その大声はどうにかならないものなんだろうか。無駄に勢いのある王泥喜君を見てると自分がものすごく年をとったように思えてくる。
「一体、何の勉強してたんですか?」
問い掛けに、側においてあった教科書を指差した。それを確認した王泥喜君は意外そうに目を丸くする。
「生物?成歩堂さん、理系でしたっけ?」
彼が不思議に思うのは無理もない。大学受験に直接関係のない、しかも定期試験でもない時期に、わざわざ睡眠時間まで削って勉強するなんて。
でも、それでもぼくにはれっきとした理由があったのだ。
「先生、が……」
舌の上で転がす。その呼び名にすらどきりとした。
先生。先生が、ぼくに気付いてくれないから。ぼくの名前を呼んでも全然気が付かないみたいだから。
御剣先生と───生物の御剣先生とぼくには、ある共通点がある。それはある夏の記憶を共有しているということだった。そのはずなのに、先生はまるでぼくに気が付かない。
『その必要はない。……君じゃないのだろう?』
彼の声は今でもはっきりと脳裏に刻み込まれている。思い出すだけで胸が熱くなるような。救ってもらったという光のような記憶が容易に蘇る。
あの時のことは、その後のぼくに多大な影響を起こす出来事だったというのに。
誰もが忘れてしまう些細な記憶の出来事を数年間、ぼくはずっと一人で抱えていた。
「先生がどうかしたんですか?」
「気付かないのなら、自分から目立ってやろうと思ってね」
一人、遠い世界へと出掛けたぼくに焦れて王泥喜君が言葉を挟む。それににやりと笑いつつ答えた。
そう、それがぼくが必死になって勉強をする理由なのだ。先生がぼくを思い出すように自分を印象付けることが。先生に直接言って思い出してもらうことは簡単だけど、それじゃあつまらない。
意味がわからないといった様子で王泥喜君は眉をしかめた。会話をはぐらかすようなことをして、彼には申し訳ないとは思う。けど、この心情を説明することは自分でも困難に思えた。
「その、裏を含んだような言い方やめてもらえませんか」
「今にわかるよ」
何の考えもなく適当に返すと王泥喜君の顔がますます渋くなった。