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 ぼくは廊下を歩く。胸に抱えるのは、一冊のノート。そして、期待。
 廊下の角を曲がり、校舎の隅に存在するある部屋の前で立ち止まる。生物準備室。そう、御剣先生が使っている部屋だ。妙な緊張からか、抱えていたノートに指の力を加える。
 ぼくは生物のレポートを届けに来たのだった。提出期限に間に合わず、一人遅れてしまった。わざとじゃなかった。勉強に夢中になるあまり出されていた宿題を忘れてしまったのだ。自分の間抜けさに情けなくなったけど、逆に考えればこれは滅多とないチャンスなのかもしれない。他の人間がいない場所で二人きり。言って、しまおうか───もう、自分から。
 どう言おう。先生、覚えてるかな。本気で忘れてたら、さみしいな。
 今にも溢れてしまいそうな不安と期待を喉に押し止め、ぼくは扉をノックした。気持ちが急いたせいか、返事もろくに聞かないまま扉を開けた。
「失礼します!」
 開いた扉の向こうには御剣先生の空間が広がっている。大きな窓を背面に、本が詰め込まれた書棚、チェステーブル、机。置かれているソファに目を移した瞬間、様々な感情が入り混じって思わずノートを落としそうになる。
 先生はその上に目を閉じて横たわっていた。
「御剣先生……?」
 仮眠のつもりなのだろうかと思い、恐る恐る声を掛けてみる。けど、その呼び掛けに返事は返ってこなかった。それどころか反応すらしない。
「……なんだよ」
 思わず、本音の呟きが漏れてしまった。
 後ろ手に扉を閉めて部屋の中に足を踏み入れる。そっと、近付く。
「せんせい」
 呼んでも、やっぱり反応はなかった。
 期待と緊張をいっぱいにまで詰め込んでいた心臓は、この光景にすっかり萎えてしまっていた。ソファのすぐ横に辿り着いたぼくは膝を曲げてしゃがみ込む。目を閉じている先生の顔を覗き込むために。
 ぼくが何をしようと思っていたかなんて先生にわかるはずもない。ただぼくが勝手に一人で想像して盛り上がっていただけのこと。でも、何だか裏切られたような気がして先生の顔を睨み付けた。
「なんで……覚えてないんだよ」
 そう悪態をつく。なんで、ぼくのこと忘れてるんだよ。助けてくれたくせに。
 先生は大勢の生徒に接するのだから、ぼくにとっては先生は一人だけど、先生には違うのかもしれない。悔しさと寂しさと切なさで、何だか泣きたくなってしまう。
「先生の、ばか」
 悔しさにまた呟いた。そうしながらぼくは先生の顔をじっと観察していた。
 いつもは教壇に立っているから、先生をこうして間近で見るのは初めてのことだった。相手の目が閉じているのをいいことに遠慮なく視線を注ぐ。
 眉が短い。まつ毛も短い。額に掛かる髪は人よりも薄い色をしている。肌の色も白かった。胸の上に置かれている大きな手。黒板に文字を書くその手は、思いのほか不器用そうに角ばっている。教科書を読む唇。開くと意外に大きい。今はほんの少しだけ開いて、空気を飲み込んでいる。髪も眉も唇も手も。これ全部、御剣先生の。
 ───ほしい。
「!」
 突然閃いた言葉にぼくは目を見開いた。ばっと立ち上がる。
 なに?なんだ?
 自分で思ったことがわからなくて混乱をした。今、自分は何て思った?
 それは欲求だった。欲する心。ただ一瞬閃いただけなのに、それはぼくの思考を侵食していく。透明な水にぽとりと落とされた色のように。大きく広がって、広がって。もう回収できない。
「ムぅ……」
 その時、無言を保っていた御剣先生がいきなり声を発した。それに反応してぼくの身体が跳ね上がる。ゆっくりと一歩、後ずさり……一定の距離を開けると身体を翻してその部屋を飛び出していた。
 どうしよう。どうしよう。───どうする?
 ぐるぐると疑問だけが頭の中で巡っていた。それから逃げ切るように両足を慌てて動かす。一直線に繋がる廊下をぼくは走り出した。
 ぼくは御剣先生に、ぼくに気付いてほしかった。思い出してほしかった。ただそれだけだったはずなのに。この欲望は一体どこから来たのだろう?あの人がほしい、だなんて。ぼくは生徒で先生は教師だ。何より、男同士だ。それなのにこんなこと考えるなんておかしい。どうかしている。
 まだ高校生で、幼い自分でも知っていた。その感情と欲望が何と言われるかを。他人に向けるこの思いが、ある特別な意味を持っていることを。
 でもぼくはそれを受け止めて処理することが出来なくて、放課後の人気のない廊下を全速力で走ることしか出来なかった。





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本で出すパラレルものの予告編です。
こんな感じで、会話相手として特に深く関わることなく、
他キャラがちょろちょろ出てきます…
思春期なるほどくんと御剣先生がどうなるかは、
本で書いていますので、興味をもたれた方はぜひ。

CHORICOさんよりイラストをいただいてしまいました。
私の妄想を具体化した素敵絵はこちらから


 

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