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 うまくいかない。
 あれから何度か交渉を重ねるものの、成歩堂は頑なに首を縦には振らなかった。まあ同性に抱かせてほしいと言われ、素直に受け入れる男などいるはずもないが。
 それでも私は苛ついていた。答えなどわかっていたのに、焦れていた。
「何をやっているのだ、糸鋸刑事!さっさと調べに行きたまえ!」
「すまねぇッス!」
 叱咤すると糸鋸刑事は犬のように走り去って行った。
 私は両腕を組み、その上に乗せた人差し指を苛々と動かす。こんなにも機嫌が悪いのには理由がある。私の担当である事件の証拠品に見落としが見つかったのだ。法廷で弁護側にそれを指摘され、裁判は明日に延期となってしまった。
 私は常に真実を求めている。ただ貪欲に、ひたすらに、憎むべき犯罪に厳しい追求を。それが私が天才検事と呼ばれる所以だ。
 だが、このようなことは屈辱だった。捜査が不完全ではロジックはおろか、真実すら手に入れることが出来ない。
 無性に湧き上がる苛立ちに、重い気分のまま私は爪先の向きを変える。裁判所の出口に向かおうと右足を前に運んだ次の瞬間に。ぎくりとする。
 長い廊下の先に青いスーツがあった。それは幻ではない。驚いて足を止めた私の元へとそれは近付いてきた。
「荒れてるね」
 成歩堂はそう言い肩を竦める。どうしてここに、と問い詰めようとしたが彼もまた同じ法曹界に身を置く者だ。裁判所にいても不思議ではない。
 惚れている相手に偶然会うなど、普通ならば飛び上がって喜ぶべき幸運なのだろう。しかし今の私は苛立っていた。ただでさえ苦手な世間話をにこやかにする余裕もなくて、私は彼の横をすり抜けると再び出口へと歩き出した。成歩堂の気配が背中の後ろで動く。ついてくるつもりらしい。
「疲れているんじゃないか?お前、働きすぎだよ。眉間にひびが入ってるぞ」
 結構な速度で歩いているつもりだ。なのに彼は執念深く私の後を追う。距離を開けることなく、どこまでもついてくる。出口に向かおうとしている私をどこまでもどこまでも。
 おかげで私は自分の足を止めるしかなかった。そうしなければ彼の足は止まらないだろうから。振り返り、溜息混じりに呟く。
「ご忠告、感謝する。私も君ほど大らかになれればよいのだがな」
「それって誉めてんの?」
 毎回毎回胃の痛くなるような崖っぷちの裁判に投げ込まれ、勝利を得る彼には心底感心する。しかし素直に誉めることが出来ないのは私の性格のせいだろう。良く言えば大らか、悪く言えば鈍感である成歩堂は軽く私の肩を叩いてきた。
「そう力むなよ。どうせ完璧完璧って、また自分を追い詰めてるんだろ。あっちもこっちも手を出したら完璧になんかできるわけないじゃないか。ただでさえ不器用なんだからさ」
 成歩堂のアドバイスは最もなものだ。反論の仕様がない。
 彼の言う通り私は不器用で、だが理想は誰よりも高く、いつでも完璧でありたいと考え努力している。しかし努力だけでは追い付けない部分も確かに存在する。そしてそれがどうしても情けなく、苛つく。その余裕のなさがまたミスを呼んでしまう。そんなことは彼に指摘されないまでも、自分自身でよくわかっている。
 どうしてこうも、この男は私の心にずかずかと入ってくるのか。土足で上がり、私の心を滅茶苦茶に荒らすくせに自分にその意識はないと言う。全く身勝手な男だ。
「貴様に何がわかる!」
 声を荒げた私を成歩堂は振り返った。感情を高ぶらせた私を意外そうな瞳で見つめる。
 そこで私は気付いてしまった。些細なことがいつもよりも腹ただしく思える理由。うまくいかない。今まで順調に回っていた歯車が噛み合わず、何もかもがうまくいかない。何もかもが悪い方向へと進んでしまう。今までこんなことはなかったのに。
 私の不調の原因は自分以外にある。そうだ、私は悪くないのに、彼が───
 その時の私は本当に情けなかった。自分の至らなさを全て彼のせいにした。責任転嫁をした。
 私は足を止めた。成歩堂も立ち止まる。立ち止まった彼が視線を私に向けていることを自覚しながら。私は口を開く。
「責任を……取ってくれないか」
「どういう意味?」
 私の言葉に成歩堂は露骨に顔をしかめる。不愉快だと言わんばかりのその表情を、私は自分の顔もしかめつつ向かい受けた。私も切羽詰っているのだ。
「なにそれ。なんだよ責任って」
「君のおかげで私はおかしくなってしまった。以前の私ならばミスもしなかったし、負けることもなかったのだ」
 胸の中は動揺と怒りで沸き上がっているのに口調だけは妙に冷静に作れた。矛先をある一点に向けることができたからだろう。自分以外の、他の人間に。
 そうだ、何もかも君が悪い。君が私を追い、君が私を救い、君が私を正した。そして私は君を愛してしまった。おかげで、私は。
 君なしではうまく生きられなくなってしまった。
「私がこうなったのは君のせいだ」
「へぇ」
 成歩堂は大きな目を細め、薄く笑う。何を言っても八つ当たりにしか聞こえていないのだろう。それは最もな反応だと思ったが、苛立ちは消えない。
 私は最後にこう言い放つ。うまくいかない歯痒さを吐き出す声に込めて。
「……君に私を巻き込まないでくれ」
 成歩堂は何も言わなかった。しばらく二人無言でいた。夕方が夜に入れ替わる時間帯。裁判所に人は少ない。二人の側を通る人間すらいなくて、停滞する空気は重苦しくなっていくばかりだった。
「さすが御剣検事。君らしい、自分本位で身勝手な台詞だね」
 ぽつりと、静かに成歩堂が口を開いた。口元には薄く笑みが浮かんでいる。いきなりそう言われ、何だそれはと本気で怒鳴りそうになった。しかしそれよりも先に成歩堂が言葉を続ける。
「ぼくを巻き込んだのは君の方が先だろ?」
 挑むようにそう囁かれ、私は口を閉じてしまう。いつもこうだ。彼の存在、顔、表情、声、言葉。全てが私という人間を翻弄する。天才検事とうたわれている私をいとも簡単に。
 勝手に追い掛け、巻き込まれたのは君の方だ、と。そう言いたかったのに言えなかった。
 成歩堂は私からあっさりと離れた。廊下の壁に設置されているエレベータのボタンを押す。光が点灯し、やがて階数の数字が近付き重たい箱が扉の向こうに到着した音が響く。
「乗らないの?」
 開いた扉を背にして成歩堂は振り返る。私はその後ろに広がる窓のない小さな箱に躊躇した。それだけで息苦しいような気がして素早く目をそこから逸らす。
「……ム。私は、まだやる事が残っている」
 成歩堂は無言で足を進め、エレベータに乗り込んだ。乗らずに足を止めている私を真正面から見据えた。
「なぁ、御剣。プライドってそんなに大事?」
 回り道のないストレートな質問に私は言葉を失った。成歩堂は中から開閉ボタンを押し、私を待っているようだった。それがわかっていても足は動かなかった。幼い頃の記憶がこうしていまだに私の足を止める。
 それを見抜いたように成歩堂が言う。
「怖いって言っても別に笑わないよ」
「私は怖がってなどいない!」
「君はぼくが、欲しいんじゃないの?」
 はっとして私は成歩堂を見た。彼は私に手を差し伸べるわけでもなく、ただそこにいた。そこから動かなかった。成歩堂が押さえていたのにもかかわらず扉がゆっくりと閉まりだす。時間切れか。徐々に狭められていく世界で成歩堂はまた口を開いた。
「怖がって、一人で歩こうとしないような奴に」
 そして、成歩堂は。ふてぶてしい笑みを浮かべて私にこう宣言したのだ。
「ぼくは絶対落ちない」







 うまくいかない。
 うまくいかないのだ。何もかもが。
 頭の中に浮かぶ情報と情報を繋ごうと何度も試みる。が、それは失敗し中間で虚しく弾けてしまう。組み合わせを変えて何度も繋ごうとも、結果は同じだった。
 うまくいかない。もう一度思い、突っ伏そうとした頭を何とか止める。足りないのか、情報が。情報が足りなくてはロジックが組み立てられない。真実に近付けない。
 そう思い、私は顔を上げた。勢いをつけて椅子から立ち上がる。ジャケットを手に取り執務室の扉を開ける。廊下に出たところで糸鋸刑事に出くわした。私を訪ねてきたのだろう。
「どこ行くッスか?」
「どうしても気になる点があるのだ。もう一度現場に……」
「自分も付き合うッス」
 言うが早いか、糸鋸刑事は小走りで駆け寄ってきた。時間はもうすでに午前零時に近い。彼相手でも流石に気が引けたが、すでに意気揚々と私の後に続いていた。
 足早に駐車場へと向かい、糸鋸刑事の運転する車へと乗り込む。すでに人影は少ない。こんな時間ならば当たり前だ。思わず自嘲の笑みが出た。運転する糸鋸刑事へと言葉を掛ける。
「みっともないだろう。裁判前日の夜中になってまで焦るなどと」
 以前の私ならば、前日にはもうすでに全ての準備を終えていたはずだった。完璧という狩魔の教えのとおりに。直前まで来れば、余裕を持って自宅へと帰り明日への英気を養っていた。逆に、前日まであがく他の検事を見て嘲笑っていたというのに。
「そんなことないッス!」
 糸鋸刑事はハンドルからは手を離さずにぶるぶると首を横に振る。
「現場百篇は刑事の教訓ッスが、それを実行する検事は少ないッス。大抵は書類を見て終わりッス。でも我々の捜査だけでなく、自分で直接何度も足を運ぶ御剣検事を尊敬してる刑事も多いッスよ」
 糸鋸刑事の褒め言葉に、すぐに納得し頷くことはプライドが邪魔をした。
「必死に証拠品や証人をかき集める検事を、か?」
「真実のためにプライド捨てて走り回る検事を笑う人間はいないッスよ」
 自分を卑下して笑ったのに、糸鋸刑事にあっさりと否定されてしまった。
 私は口を閉じた。突然の沈黙に、ミラー越しに刑事が後方の私を伺う。
「眠たいッスか?御剣検事」
「いや。大丈夫だ」
 問い掛けに言葉少なに答えた。
 眠たいどころか目が覚める思いだった。
 私は今まで努力することはみっともないことだと思っていたのだ。それが狩魔検事の教えだった。最も、彼は生まれながらの天才だったから努力というものを知らなかったのかもしれない。実の娘である冥もまた、涙を流すほど苦しんでいたとしても、決してそれを外に出すことはしなかったのだから。
 あるものを求める時に、必死になることは当然であり、たとえそれがみっともなく見えても決して恥じることではないのだと。
 いつも愚鈍としている刑事にそう気付かされ、プライドの高い私は何故だかとても悔しくなり、何の疑問も無くのん気に運転を続ける刑事の給与査定の見直しを誓ったのだった。





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