二つの情報が導き出す答えは───
それぞれ脳に刻み付けた情報がひとつの円になり、更に大きな円となる。そこに浮かび上がる更なる真実に私は目を凝らした。
「異議あり!」
法廷に立つ時のように声を張り上げると、対面していた男は怯えた表情で突き付けられた人差し指とその持ち主である私を見る。
「もしその目撃証言が間違っているのならば、貴方のアリバイもまた不確かなものとなる。一体どちらが本当なのだろうか?」
男の口がぱくぱくと無意味に動き空気を噛む。言い訳を言ったつもりが実際には何も出てこなかったというところか。私は他人に突き付けていた人差し指を自らの額に当て、笑みを浮かべる。
「証言は法廷で聞くことにしよう。糸鋸刑事!署までお連れしろ」
「はいッス!」
後ろで控えていた糸鋸刑事が走り寄り、顔面蒼白の男を促す。私はその二人の後ろ姿を無表情で見送った。
●
「うぉぉぉ、さすがッス!さすが御剣検事ッス!」
「……静かにしてくれないか、糸鋸刑事」
警察署に戻り、そしてまた検事局の私の執務室を訪れた糸鋸刑事は興奮気味にそう言う。私は書類をめくる手を止め彼を見返した。私の目に込められた不機嫌は彼には全く届かないようだった。さすが御剣検事ッス!ともう一度繰り返す。
糸鋸刑事は私の事件を担当している所轄署の刑事だ。いつもよく動いてはくれるが、こうして人の話を聞かない所は直すべき点だと思う。実際に、あまり騒ぐと来月の給料査定に響くぞと呟いた私の言葉は全く耳に届いていないようだった。
「さすが天才検事ッス。起訴する前の捜査の時点であそこまで追い詰めるなんて、完璧ッス!かっこいいッス!すごいッス!」
「私は、完璧ではない」
まるで子供のような誉め方に苦笑する。ぶるぶると大げさに首を振る糸鋸刑事は私の否定に更にヒートアップした。
「自分から見たら完璧ッス。個人の執務室もあるし、紅茶セットもあるし、何と言ってもソーメン以外のものを食べてるッス!仕事も出来るし、女性にもモテてるッス!完璧ッス!」
女性?と聞こうとした瞬間、彼が指すのは窓際に置かれている花のことだと思い当たり無駄にダメージを受けてしまった。毎月贈られてくるそれは女性からといえば聞こえはいいが、その女性が問題なのだ。
多少の頭痛を覚えつつ私はもう一度否定した。
「私は完璧ではないぞ」
彼の言い分はともかく、私という人間は完璧ではない。近頃はそれを強く感じているところなのだ。
それは何故かと言えば。
机の隅に置いてあった携帯電話が小刻みに震える。私はその震えが収まらないうちに素早く手に取り画面を確認する。
携帯電話のディスプレイに簡単なアニメが流れていた。ひらり、ひらりと手紙が舞い落ちてくるイメージ。それはメールの受信を示していた。不器用でうまく動かない指を叱咤しつつそのメールを開封した。
差出人は成歩堂龍一。用件は、短く一言。
いいよ。
たったそれだけの文章に私は舞い上がった。決して顔には出さないように、一人でその文とは言えないほどに短い文面を何度も繰り返していた。
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全てブラインドを下し終わった後、成歩堂は振り返り微笑む。所長室に通されソファに腰を下していた私は視線だけで彼を促した。成歩堂は一度キッチンへと引っ込むと来客用ではないシンプルなカップを両手に持ち戻ってきた。そのひとつを私の前に置く。その隣りにもうひとつの物も置き、自分もソファに腰を下した。
淹れたばかりのコーヒーがよい香りを放っている。しかし私はそれには目もくれずに、向かいに座る男をじっと見つめていた。
「で、なに?頼みごとって」
コーヒーカップに口をつけつつ私を見遣る。大きな黒目が自分を上目遣いに捕らえ、思わずどきりとしてしまった。彼の仕草に深い意味はないらしい。すぐに逸らされる。
頼み事がある。夜、君の事務所に寄っていいだろうか。
突然の私の申し出を彼はすぐに承諾した。知り合ったのは小学生の頃と、無駄に長い付き合いとはいえ、実際共に過ごした時間は少ない。だが、彼が弁護士という仕事を選んだきっかけを与えた大事な友人でもある私の言葉を彼が無下に断るはずはなかった。
どこか緊張した面持ちで現れた私に、成歩堂は驚きながらも事務所へと通したのだった。
頼みごとって改めて言われると怖いな。でも矢張から言われるよりはマシかな、と成歩堂は苦笑した。こうして笑顔を見るのは二週間ぶりだ。私も彼も、法曹界に身に置き忙しい日々を過ごしているのだから。
私は一度溜息をつき、改めて彼の顔を見つめる。そしてこう言った。
「一度、私に抱かれてみてはくれないだろうか」
「はぁ?」
とんでもなく間抜けな返答が事務所に響く。成歩堂の顔には不快感は浮かんでいない。そこまで考えが至らないのだろう。与えられた言葉を理解するので精一杯らしい。
「それ、どういう意味だよ」
「どういう意味も言葉の通りだ。成歩堂。私は君を抱きたい」
一人色々と考えたが、どうしても回りくどくなってしまう。それを恐れた私は言葉で心を装飾することをやめた。ストレートに伝えるしかないと思ったのだ。今の自分の考えを。
「……それさぁ。この前言ったことと繋がってる?」
「この前言ったこととは何だ。具体的に言いたまえ」
しばらく悩んだ後、成歩堂は私以外の場所を見つめながら尋ねてきた。私の射るような視線が痛いのか居心地が悪いのか、端的に聞き返した私の質問にも視線を返してくれない。それでも見続ける私にイラついたのか、ああもうと呟いてようやく私を見た。
「君がぼくを好きだって言ったことだよ。まさか忘れたとか言わないだろうな」
「忘れるはずがないだろう。君は私が好きだ」
「そういう恥ずかしいことを何度も言うな」
そう言い捨てるとまたすぐに視線を逸らしてしまう。露出した耳が赤くなっている。同性からとはいえ、真正面からの告白に照れているのか。そんな小さなことにすら私の心臓は大きく跳ね上がる。
この前、彼と二人きりで飲んだことを思い出す。狭い居酒屋の中、互いに膝が触れてしまいそうなほどに近い距離で。酒を飲み、赤くなった頬と蕩けた黒い瞳に私はひた隠すつもりの感情を正直に告げてしまったのだ。
成歩堂、私は君が好きだと。
「ええと。もし仮に、本当に君がぼくを好きとして」
「仮にとは何だ。私が冗談を言っているように見えるのか」
「見えないけどさ。でも内容的に冗談にしか思えないよ」
私の物言いに彼は呆れて笑う。いつもの遣り取りにほんの少し気を取り直した様子の彼が私をじっと見つめた。
「惚れてる相手にいきなり言う言葉が、それ?天才検事にしてはあまりにも直接的過ぎないか?」
確かに彼の言う通り、もしこの思いを向ける対象が女性ならば、もう順序だててこの台詞を言ったに違いない。慎重に、丁寧に回り道をしただろう。
まず会話を重ね、頃合を見計らって食事に誘い、それを何度か繰り返して。矢張が得意とするような手順を、いくら私が不器用とはいえ出来ないとでも思っているのだろうか。
私はそんな手順を成歩堂相手に行うのが馬鹿らしいと思ったのだ。
「君は女性ではない。そんな駆け引きや遣り取りが必要なほど繊細とは思えないが」
「いやいやいや。恋愛の手順に繊細も何もないだろ」
私は彼に苛ついた。私が言わんとしている事はそういう事ではないのだ。
私は成歩堂龍一に惚れている。ただそれだけのこと。
顎を引き正面に座る男の顔を見つめる。瞬きをする暇すら己に与えずに、私はもう一度彼に願った。
「成歩堂。抱かせてほしい」
成歩堂は私の言葉ににこりと目尻を下げた。そして迷いのない声でこう答えた。
「やだよ」
●
「で、で、どうなったんですか!?」
「よくぞ聞いてくれたぜ真宵ちゃん!そこでオレはミユキの肩を掴んで……」
後半の言葉までは聞き取れなかった。三人の頭が一同に狭い範囲に固まり、しばらくした後で。高い声の歓声が上がる。
「すごいねぇはみちゃん。オトナの世界だねぇ」
「わたくし、おどろきました!」
うんうんと感心したように一人頷く彼女も十九歳で、もはや子供とは言えない年齢の気もするが。呆れのような感情を持って彼女らを見守っていた私に気付き、真宵くんは私の元へと近付いてきた。
「御剣検事は聞かないんですか?ヤッパリさんのぶゆーでん!」
「残念ながら興味がないのだ」
首を振って手元の雑誌に視線を落とそうとしたが、伸びてきた手にそれは奪われてしまった。仕方なく顔を上げると矢張がこちらを見ていた。
「冷たいこと言うなよぉ、御剣ぃ。オメーは何かねぇのかよ!そのヒラヒラでオンナたくさん泣かせてんじゃねぇの?」
「あっあたしも聞きたいです!御剣検事のぶゆーでん!」
真宵くんと春美くんが顔を見合わせ、そしてまた目を輝かせて私に詰め寄ってきた。矢張一人ならともかく、純真な少女たちにこんな期待のこもった瞳で見つめられても……困る。
困惑した私は戸惑いながらも口を開きかけた。
「興味ないって言ってるだろ」
しかし、先に割り込んできたのは成歩堂だった。
私、真宵くん、春美くん、矢張。ソファに座る四人が一斉に彼を見上げた。所長室に一人こもり、仕事をしていたはずの彼が腰に手を当てた格好で私たちを見下ろしていた。その眉間には不機嫌そうにシワが刻まれている。
「こっちは仕事してるのに、さっきからうるさいんだよ。矢張、お前もう帰れよ。真宵ちゃんも春美ちゃん送ってやって。で、今日はもう帰っていいよ」
話を中断され、彼らは口々に不満を訴えたが、命令した彼は一番の権限を持つこの事務所の所長でもある。真宵くんは何故か矢張に夕食のラーメンを奢らせる約束を取り付け、まだ喚こうとする矢張の背中を押し事務所を後にした。その後を春美くんが追い、最後に私たちに向かって頭をぺこりと下げた。
そうして、事務所に残ったのは私一人だけになってしまった。成歩堂が私だけを邪魔扱いしなかった事実に少しながら胸が躍る。ふと、成歩堂の疲れた瞳が私を捕らえた。
「なんだ御剣、まだいたのか」
落胆で崩れ落ちそうになる上半身を押し止めつつ、精一杯の虚勢で彼に向かって皮肉の笑みを返す。
「君が私の食事の誘いを受けたのは記憶違いだったのか?慣れないデスクワークで記憶喪失にでもなったのか」
「ああそうだっけ。ごめん、もっと早く終わると思ったんだけど……」
キカイ苦手なんだよな、と肩を自分で揉みながら成歩堂は私の向かい側に腰を下ろした。休憩をしたらどうかと提言すると、今夜はもう諦めたよと情けない答えを言って寄越す。
全く、情けない男だ。何故このような男に惹かれているのか自分でも不思議だった。
「本当に、興味がないのか?私の武勇伝に」
可愛さ余ってとでも言うのだろうか。彼の態度に少し腹が立った私は挑発するように尋ねてみる。成歩堂は一瞬きょとんとしたがすぐに私と同じように挑発に乗るような笑みを浮かべた。
「武勇伝って言うほどのものが君にあるの?」
「聞きたいならば教えてやろう」
遠慮するよ、と彼は笑い立ち上がった。一度大きく伸びをすると袖をまくっていたワイシャツを元に戻し始める。自分から話を投げ掛けたのだが、あっさりと流されて拍子抜けしてしまった。
「そろそろ出よう。遅くなると困るし」
うム、と頷いて自分も立ち上がった。成歩堂はジャケットを取りに所長室へ向かう。その後を追った。
「成歩堂」
「わっ」
振り返ったところでぬっと背後に現れた私を発見し、成歩堂は声を上げた。その両腕を掴んで問い質す。
「何故遠慮するのだ。君は私に恋愛経験がないとでも思ってるのか」
「お、思ってないよ」
間近に私の顔が迫り、引きつる成歩堂の顔を見て自分でもやりすぎだとは思ったが、後にも退けなかった。ではどう思っているのだとさらに距離を詰めた私に成歩堂は粘ることなくあっさりと白旗を上げた。
「悔しいからだよ」
その台詞の意味がわからず、私は首を傾げる。成歩堂は居心地の悪そうな表情を浮かべつつ続きを言う。
「悔しいくらいにかっこいいからね、君は。武勇伝なんてあってもわざわざ聞きたくなんかないよ」
突然の褒め言葉に私の思考は停止した。
「モテるだろ、君。仕事もできるし、紅茶が好きとか海外研修とか、いちいちかっこいいしさ。容姿もまあ悪くない」
「悪くないだと?」
言い咎めた声が掠れた。成歩堂はあからさまに溜息をついた。両方の二の腕は私に掴まれたままだが、ひじを曲げて自由になる部分を持ち上げる。そして私の胸をやんわりと押した。
「認めるよ。綺麗な顔してると思う。……そもそもそのヒラヒラが似合う男なんて、そうそういないよ」
これ以上ない賞賛に嫌でも口の端が釣りあがる。
ただの同性の友人同士ならば、このような会話に特に深い意味はないだろう。しかし私は彼に告白をしている。友情の境界線を越そうとしているこの時期にこのようなことを言うとは───
全く、彼は素直ではない。
「おい」
短い呼び掛けに私は動きを止める。数センチしかない短い距離の先に成歩堂の顔と唇がある。私はそこに目掛けて前進していたのだ。
黒目がちの、射るような強い視線を真正面から受け止めながら私は少しだけ微笑む。自分でも信じられないような、子供をあやすような優しい声が唇から出た。
「目を閉じろ」
「なんで」
「キスする時は目を閉じるものだろう。早く、閉じたまえ」
「閉じる必要なんかないよ。キスなんてしないから」
その間にも私はじりじりと距離を縮めていた。成歩堂は瞳に動揺を乗せながらも決して目を閉じようとはしなかった。一瞬でも閉じてしまったらキスされる、という強迫観念が彼を襲っているのだろうか。
できるだけ優しい声を作り彼をなだめる。
「君は、私に触れてほしいのだろう。私にキスしてほしいと思っていたのだろう?」
「思ってないよ」
にべもなく否定されてしまった。
おかしい。私のロジックでは、私の告白に成歩堂が受けたという結論が弾き出されていたはずなのに。そうでなければ先程のように褒めちぎることなど出来るはずがない。もしも私が矢張に同様に詰め寄られたとしても、長所のひとつすらあげることが出来ないだろう。
「では何故私を誉めたのだ。好きだからだろう」
「そんなんじゃなくて、あるだろ、男に嫉妬するって、自分より稼いでるとか自分よりモテるとか」
「私がか?」
「お前はないかもしれないけどさ!」
焦りからか早口で言い訳をする成歩堂を私は不可解なものを感じつつ見つめる。とても近い距離から。
そこでひとつの新たな情報が追加された。成歩堂はかなり素直ではない性格だ。情報と情報が線で繋がり、あるひとつの事実に結びついた。
「……意地を張るな」
「いやいやいや!何でそうなるんだよ!」
声を上げ逃げようとする身体を捕まえ、また一歩距離を詰めた。口付けの際に目を閉じないこともある。その方が相手の顔がよく見えるのだからおかしいことではない。そう思い、強引に唇を奪おうとした。
突然、カンカンカンという甲高い音がこちらに近付いてきたのに気が付いた。成歩堂にも同じ音が聞こえていたようだ。丸い目をさらに丸く見開き、私を思い切り突き飛ばした。
「なるほどくん、まだいるのー?」
二人が離れるやいなや、真宵くんが事務所に駆け込んできた。下駄で階段を駆け上ってきたらしい。小さな肩が弾んでいる。
「ケータイ、忘れちゃって。掛けてみたんだけど出なかったし、なるほどくんもう帰っちゃったんだと思ってたよ」
「え?真宵ちゃんの携帯?鳴ってたかな、気付かなかったよ」
一緒に探す振りをして私を押し退け、成歩堂は真宵くんの元へと行ってしまった。
私は一度盛り上がった気持ちをどう下げていいのかわからず、一人呆然と立ち尽くしてその後姿を見守っていた。