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 自分でも驚いていた。決して広いとは言えない、ホテルの部屋にあるのは二つの人影。このホテルを当面の生活の拠点としている私ともう一人。───裁判所で出会った青いスーツの男。フェニックス・ライト弁護士。
 驚くことに、成歩堂とよく似ているこの男は弁護士だという。外見だけでなく職業まで似ている彼とそのまま別れることなどできなかった。書置きを残し過去と決別したつもりだったのだが。自分の意志の弱さにますます吐き気がした。しかし、どうしても私は彼を帰すことができなかった。
 彼もまた私に何かを感じ取っていたのだろう。フェニックス弁護士は私の誘いを断ることなく、戸惑った様子を見せつつもこの部屋に足を踏み入れた。
 右手で自分のネクタイを緩めつつ置いてあったソファへと腰を下ろす。その仕草ひとつひとつが彼を思い出させた。これ以上動揺しないように目を逸らして、冷蔵庫へと手を伸ばす。小さな冷蔵庫に食料は入っていない。小ぶりな瓶のビールを二本取り出し蓋を開けると、そのうちの一本を彼へと差し出した。自分の気分を紛らわせるために買っておいた物だ。Thanksと彼は言う。成歩堂には到底真似できないだろう、滑らかな発音で。彼がそれに口を付けるのを確認した後、自分もソファへと腰を下ろしてビールを飲む。琥珀色の液体が喉を通り過ぎていくのを感じた。異国のビールは日本のものより炭酸がきつい。重苦しい苦味が飲み終わった後でも舌と喉に残る。彼は眉をしかめることなくそれを飲み干すと小さく息をついた。ほとんど空になった瓶を手放すことなく手に持ち、私に向かってニッと笑う。
 それを見て私はまた錯覚しそうになる。
 安っぽいアルミ缶が瓶に変わっているだけで、彼の顔は成歩堂と何の変わりもない。本当にこれは成歩堂ではないのだろうか?そんな馬鹿げた考えが何度も浮かんでくるほどに。

「……Are you a public prosecutor?For what was done did you come here?」
「Yes.It came to study the trial of the foreign country.」

 ぽつり、ぽつりと会話を交わす。当たり障りのない会話を。お互い、先程の裁判所でのことは口にしなかった。お互いに触れてはいけない、そして触れられたくない出来事なのだと思う。それは私一人の気のせいではないだろう。何故だかわからないが、そう確信があった。
 会話も少なくほぼ無言で向き合っていると、無意識に彼の姿を観察してしまう。まず目の色が違う。大きく輝く目は綺麗なブルー。それ以外の顔立ちや髪型や体格は、一見するとほとんど彼そのものだった。しかし、纏う雰囲気が違いすぎる。もちろん日本人とアメリカ人という人種の違いは明らかだ。それだけでなく、フェニックス弁護士は対面する者を切り裂くような硬質の空気を放っていた。法廷での鋭い視線だけを持たせたような。
 目が合えば彼は笑う。それは成歩堂と同じだった。目が合えば成歩堂は笑う。時には幼さを残した笑みを、時には憎らしいほどふてぶてしい自信の笑みを。いくつもの笑みを成歩堂は私に与え、向けてきた。
 しかし、この成歩堂によく似た男は一種類の笑みしか浮かべない。瞳には冷静さを残したまま、口角だけを無理にあげたぎこちない笑み。私の見てきた成歩堂はもっと屈託なく笑う男だったのに。

「Do you already want to return?」

 微笑んでいてもどこか表情の固い彼に思わず問い掛けていた。彼は青い目を丸くする。とても意外そうな表情で。数秒後、首を振って私の言葉を否定した。帰りたいと思っているわけではないらしい。彼は困ったように小さく笑う。それは浮かべるべき表情を無くし、仕方なく笑みを浮かべたように見えた。
 瓶の中のビールの小さな泡の弾ける音が空間を制す。沈黙が長引き、心に痛くなる寸前に彼は呟いた。

「It is not possible to laugh well.」

 上手く笑えない?
 私は目を瞠り、上半身を前方に傾ける。
 彼はそれ以上の立ち入りを拒んでいるようだった。不自然な笑みすら消えている。私は口をつぐみ、瓶に口をつける。流れ込んできた液体は相変わらず苦かった。
 コン、と軽い音に顔を上げる。彼が立ち上がり私の座るベッドの横へと移動してきた。ベッドの軋む、わずかな音と共に彼は私の横に座る。青い目が側にあった。奥底まで澄んだ、嘘のない青。

「What's your name?……Please tell me your name.」

 そう尋ねられて、今度は私が目を丸くする番だ。そういえば自分はまだ自己紹介をした覚えがない。この男は名も知らぬ日本人のホテルまで何の考えもなくついて来たというのか。呆れてついたため息に彼は笑った。先程よりかは自然な笑顔だった。
 適当な所まであの男に似ているのだな、と心の中で思いつつ私は口を開いた。

「Reiji Mitsurugi.……御剣、怜侍」
「………uh……ミ、ツ?」

 日本語でも硬い漢字ばかりを集めた名だ。彼は私の言葉に続こうとしたものの、見事に失敗してすぐに口を閉ざした。

「御剣」
「What?」

 いつものスピードで名乗っても外国人の彼にはうまく届かない。するりと落ちた自分の声に青い目が歪んだ。私は一度口を閉じ、わざと口の動きと音を意識しながらゆっくりと告げた。

「ミ・ツ・ル・ギ」

 彼は私の目を見つめ返しながらしばらく考える様子を見せる。そして瞬きもせずに真似た音を唇に乗せる。

「ミツルギ」

 自分より少し高い、はっきりとした声。もっと聞きたいと思った。それが欲しいと思った。なぜだかわからない。別にあの男に呼ばれているわけではないのに。

「怜侍だ」

 そう付け足して次の言葉をねだる。彼はわずかに唇を動かした。しかし声は発せられない。差し出された音を確認するため、口内で舌を動かしているのだろう。その動きを目で追いながら私は彼の声を待った。
 みつるぎ。先程聞いた声が頭に蘇る。いや、これは本当に先程の彼の声なのだろうか?
 しかし思考はそこで完全に停止する。

「レイジ」

 彼は言った。私の目を真っ直ぐに見つめたまま一度も逸らさずに。闇の中にも迷うことなく届く、その鋭い視線で。それに射抜かれて私は動けなくなる。と、同時に唇から零れた自分の名前に強く興奮した。
 気付いたら頬に触れていた。引き寄せていた。口付けていた。私は次の言葉を待たずに、自分の舌で彼の声をすくい取っていた。




 

 

 

 

 

 

 

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