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I love not you

 



 靴音を鳴らしながら歩く。
 視線を落とすことなく歩くのは私の癖だ。それはどんな場所でも変わらない。自分のなすべき事、進むべき道をきちんと知っているからだ。たとえそれが自分の意志で見つけたものではなく他人から与えられていた道だったとしても。
 鳴っていた靴音が止む。
 そうしてやっと私は自分が足を止めたことに気が付いた。どこか意識と身体が切り離されているような感覚に陥り、ぱちりと一度瞬きをする。振り返ってみても自分の後ろに続く者は誰も存在していない。再度顔を前方に向けてみても、自分の前を歩く者はやはりひとりも存在しなかった。
 それだけで私は目的を失い、途方に暮れてしまう。
 長い廊下に呆然と立ち尽くしたまま私は数分間を無駄に使った。

 自分に変化が起こっているのを感じたのは、今よりもかなり前のことになる。
 もう二度と会わないと思っていた男と再会をしたことがきっかけだった。それでも私は私を守り続けた。頑なに彼を拒絶し師を盲信した。

 その結果が、これだ。

 ふっと淡い笑みが唇から落ちた。なんと情けない。とても恥ずかしく、みっともない男だ。自分をそう嘲ることしか出来ない男は、その弱さ故に全てを捨てて逃げたのだった。
 ゆっくりと視線を前方へと戻す。長く続く廊下。道はこれから先ずっと続く。行き先も見えないまま。
 私はいま日本以外の国にいた。もう少し詳しく言えば、裁判所にいた。
 突然の辞職の申し出を上司は認めてくれなかった。法廷に立つことを頑なに拒む私に、上層部の者たちはしきりに海外研修を勧めた。優秀な君は日本にいるのはもったいない、息抜きも兼ねてアメリカの検事局に研修に行ったらどうか───猫なで声で私にそう言う彼らの声を思い出すと今でも反吐が出そうになる。
 厄介払いが出来てちょうどいいと思っていたのかもしれない。弁護士と協力して警察局長を訴えた検事など、彼らにとっては邪魔な存在でしかなかったのだろう。しかし、有能な検事をこのまま手放すのも惜しい。そんな心の声と打算があからさまに透ける声に説得され続けることに辟易した私は、半ば呆れつつもその話を了承した。
 それが一週間前の話だ。それから数日して私はすぐさま日本を発った。自分自身と、自分を取り巻く環境が嫌で仕方なかったのだ。発作的にあのような書置きを執務室に残してきてしまった。もしかして、あてつけの気持ちもあったのかもしれない。
 そして私はアメリカの裁判所にいた。検事席には立っていない。研修という名目でここに来た自分が出来るのは、まだ傍聴人と共に裁判を聞くことくらいだけだった。
 それでも私は自分が満足に思っていることを知った。あの空気が、あの場所が、嬉しかった。ただ、恋しかった。

 ───
死を選ぶと言いつつも、みっともなく法廷にしがみつく自分を彼はどう思うのだろう?

 ふと浮かんだ疑問をすぐさま打ち消す。全部無くしたと思っているのに、自分を恥じる感情だけが未だに残されているらしい。守るものも持っていないのに一体何を守ろうとするのか。自尊心か?体面か?
 私はもう一度唇を歪める。今度ははっきりと表情に嘲りが出るように。逃げても逃げても切り離せない自分自身にその感情を向けて。
これ以上どこに堕ちるというのだ。私はもう死んだ男なのだ。もう、何もかもに手が届かない。

「Hey!」

 飛び込んできた声に私は一瞬で思考を取り戻した。滑らかに流れる言葉。日本語とは異なる響き。英語。研修。裁判所。投げ付けられたたった一言をきっかけに、私は今の自分と状況を認識していく。
 しかし、突然ぶつけられた無遠慮で乱暴な呼び掛けに感謝の意を感じることもできなかった。
 私は目を細めつつ振り返る。不愉快だと、その表情を向けられた者がすぐに理解できるように眉間に皺を寄せながら。
 それから一秒後。私の目に飛び込んできたのはひとつの色だった。青。鮮やかな青。

「Edgeworth!」

 胸倉を乱暴に掴まれ振り回される形で壁へと背中を押し付けられた。視界がそれに合わせて揺れる。
 間近から見上げてくる双眸に動き出したはずの思考は再び止まった。相手は私を壁に押し付けただけではあきたらず、声を大きくして捲くし立てる。日本語ではない異国の言葉を複数突きつけられ、私は完全に言葉を失ってしまった。
 裁判を傍聴すれば、予想外の言葉や専門用語がもっと速いスピードで流れていく事も珍しくはない。私は言葉が通じないことを前提にこの国へ訪れたのだ。今更驚くこともない。
 しかし、私は向けられた言葉を何一つ理解することができなかった。
 それは彼の顔が。

「……sorry」

 その激しい責め立ては、弱々しい謝罪で幕を閉じた。先程の口調から一転したとても弱い声で。相手は肩で息をしながら私の胸元から退いた。瞳から激情は消え失せ、その代わりに深い絶望感が浮かんでいた。
 首元を圧迫していた力が緩み、そして瞬く間に無くなり、私は解放された。
 彼は一歩下がる。私との距離をとるために。少し離れたおかげで私は彼の顔をまじまじと観察することが出来た。眉尻が奇妙な形に歪んでいる。閉じられた口。大きい瞳は伏せられ、その上にまつ毛が被さる。絶望の色を乗せた影で曇る瞳は私を二度と見ようとはしない。
 まさか、こんなことが、あるのだろうか。
 その疑問ではなくわずかな息が唇から落ちていった。青いスーツに首元を飾るのは明るい色のネクタイ。後ろに流された髪。それは、どう見ても。
 自分の中でどくどくと血液が流れて暴れる。極度の緊張と驚きに気圧され、問い掛けはやはりうまく声にすることができなかった。
 見つめるうちに伏せられたまつ毛がぴくりと震えた。落とされていた視線が私に戻ってくる。動く瞳。ゆっくりと、ゆっくりと動き、瞬きを繰り返し、私の姿をその中に映し出す。
 それと同時に私の心も落ち着きを取り戻し始めた。彼の目は青かった。よく見れば肌の色も少し白い。髪の色も黒が薄い。鼻筋の線も頬も違う。私の中の彼とは比べれば比べるほど異なっていた。明るい色に輝く瞳を見返しながら私は自分の心に現実を教え込む。
 この男は成歩堂ではない。成歩堂が私の目の前にいるわけがない。

「He cannot be alive.」

 それは彼の独り言。皮肉と諦めの色が深く滲んだ掠れた独り言。しかし私の胸に突き刺さった。
 また一歩下がる。私から離れる。下がる。そして背を向ける。歩き出す。
 私は無言でその背中を見送った。やがてそれは廊下の突き当りを曲がり、見えなくなる。私は壁に背を付けたまま彼の背中を見送った、その後。
 自分でも訳がわからぬまま走り出していた。彼の背中を追って。



 

 

 

 

 

 

 

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