2018年3月1日 某県 某小学校
● 糸鋸刑事は、約一年ぶりに姿を見せた私を涙ながらに出迎えた。
私は一年をかけて今まで自分が過ごした場所を順々に追っていた。
まずはアメリカの研修施設に足を向けた。先生の知り合いである天野河丈一郎に資金の援助を受け、数年間通った。その時に共に生活したのが冥だった。勝気な彼女はことあるごとに私を敵視していた。今は日本へ渡り、あの男へ勝負を挑んでいるという。日常的に鞭で叩かれている不運な糸鋸刑事がこの間、電話でぼやいていた。
彼女は、狩魔検事から嘘のない本当の教えを受けているのだろう。何故なら彼女は狩魔検事の実の娘である。敵であった弁護士を父に持つ、私とは違って。
彼女は狩魔検事の教えの通りに完璧を作り出し、彼に敗北を与えるのだろう。嘘で出来上がった自分がなし得なかったことを、必ずやり遂げるだろう。
虚しさを抱えて、私は転々と己の足跡を追う。司法修習生として訪れた裁判所。父親の墓。幼い私が両親と共に住んでいた、今は別の家族が住む家。
最後に辿り着いたのが───小学校だった。途中で転校し、卒業を迎えることのできなかったあの、小学校。
時刻も遅く、ひっそりと静まり返った小学校の中をゆっくりと見て回る。味気のない机が何個も置かれている教室。空っぽの靴箱が羅列する昇降口。校庭にある古い遊具。
何もかもが小さく見えた。そう思う度に感じる。ああ、私が大きくなったのだ。大人になり、ここに通う資格を無くしてしまった。
人気のない校庭を見つめる内に、昔の記憶が幻となって現れ始めた。私を見つめる人影は二つ。その、穢れのない少年たちに私はこう自慢げに宣言するのだ。
『ボクはかならず、父さんのような弁護士になるのだよ。リッパな弁護士に……』
その言葉は結局は嘘になってしまった。検事になった大人の私はふっと鼻で笑う。それに押されたように、幻の二人も消え失せてしまった。
私の言葉にも嘘はあったのだ。嘘に囲まれてきた私がどんなにそれを嫌悪しても、その事実は変わらない。嘘。嘘。許せないもの。憎いもの。だがそれは常に私と共にあって───
全てが嘘ならば、最初から何もなかったのだろうか。
私の歩んできた道に、意味も目的もなかったのかもしれない。最初から。
耐え切れずに頭を抱える。逃げ場などどこにもないのだ。子供の時も、日本の外にいても、法廷に立っていても。どこにも人のつく嘘は潜んでいる。自分にも嘘は潜んでいる。恐ろしい。一体、どうしたらいいのだろう。
目を閉じ、全てのものを拒絶した私に。ふいに言葉が届いた。
『いいか御剣』
はっとして顔を上げる。そこには、少年ではなく大人になった青いスーツの男の幻があった。
『君はお父さんを殺していなかったし、悪いことは何一つしていない。ぼくはそれを信じていたし、それを証明しただけなんだよ』
それは、あの夜の。
私の真正面に立ち、真っ直ぐに私を射抜く。
子供の時を一緒に過ごし、残酷な事件に突然繋がりを絶たれた。正反対の道を進み、落ちていこうとする私の手を寸前で掴んだ。そして、互いに傷付きながらも必死に引き上げてくれた。
「成歩堂……」
幻が消えぬように、その名を呼ぶ。
私の周りには嘘があった。そして私は彼のついた嘘が許せなかった。だから、傷付けて離れた。しかし、私自身にも嘘があったのだ。成歩堂はそれでも私を信じた。
目を閉じ、その場に立ち尽くす。今になって感じていた。か彼が私に向けてくれていた、深い思いを。そして私はやっと理解した。
信じるとは、こういうことなのだと。
右手をコートのポケットに差し入れる。小さな感触が指に触れた。それは、何度捨てようと思っても捨て切れなかったもの。場所を巡る私と共に常にあったもの。指先で摘み、取り出す。小さなバッジは確かに私の手の中にあった。先生の言った事が全て嘘ならば、私はこれを手にすることはなかっただろう。これを持ち、法廷に立ち。嘘を暴き、真実を導き出すことなど不可能だった。
嘘の中にも存在した、小さな真実を手のひらで包み、自身の胸に当てる。
もう一度、信じてみようと思った。私自身も、私を二度も救ったあの男のことも。
主を突然に亡くしたはずの執務室は、変わらず綺麗に整頓されていた。ほこりすらない。あの遺書を目にしても、諦めることなくこの部屋を守った糸鋸刑事に心の中で感謝しつつ、私は椅子に腰を下ろした。
ホテル・バンドー・インペリアルで起こった事件の概要に目を通し始める。
この事件の担当は冥がしている。弁護人は───成歩堂龍一。この事件までに二人が法廷で対面したのは二回。二度とも成歩堂が勝利をあげていた。
父親譲りのプライドの高さを持つ冥がこのまま引き下がるわけがない。何としても勝利を手に入れようと躍起になっていることだろう。
事件の概要を頭に入れた後に手を伸ばしたのは、ある報告書。事件に関係する人物たちの過去の秘密がそこには書かれていた。
天野由利恵の自殺の謎と華宮霧緒の自殺未遂。
この二つのことは今回の事件に大きく関係していることだろう。私のロジックは素早く動き始める。わざわざ現場に足を運ばずとも、報告書を読めば大体の裏は読める。
そこで私は今、現場を巡っている最中であろうあの男のことを思った。
いくら成歩堂が奔走しても、この事実に辿り着くことはできない。人々が隠し通す事実は見えても、すでに終わった過去までは捜査することができない。
その時に必要となるのが、検事局と警察局が持つ過去の事件の記録たちだろう。
『いずれ、君にもわかるよ。……必ず。たった一人で奴らと戦うためには……何が必要なのかをね』
巌徒局長の言葉が突然、脳裏に閃き息を飲む。他の人の手で作られた報告書を机の上に置き、無言で見つめた。
(組織、ということか……)
一年以上が過ぎ、私はやっとその真意を知ることができた。
彼が作り出そうとしていたのは捏造された証拠品ではない。何事にも揺るぎのない、確固たる組織。それをあの殺人と、脅迫によって作り出そうとしたのだろう。
狩魔豪検事。巌徒海慈警察局長。己の信念のため、罪に手を染め落ちていった人間たち。彼らの犯したことは憎むべきことだ。
しかし、その中にも彼らなりの真意があった。嘘ばかりではなかった。
法廷もそうだ。証人は嘘をつく。そしてそれを見破ることなど不可能だ。しかし、その中にも真実の欠片は必ず含まれている。ひとつひとつ掬い上げ、真相を明かす。有罪という勝利を手にすることが目的ではないのだ。私たち検事の仕事は。
法廷に立つ目的を手に入れたなら、後はそれに向かって努力するのみ。同じ目的を持つ彼はきっと、多くの謎にあがいていることだろう。
立ち上がる。そして、その書類を手に警察署へと向かった。