2017年3月6日 成歩堂法律事務所
「御剣?」
ぼんやりと扉の前で立っていた人影が私だということに気が付くと、成歩堂は怪訝そうにしていた顔をわずかに緩めた。
「びっくりするじゃないか。どうしたんだよ」
暗いせいで私の表情までは読めないらしい。鞄を片手に私に近付いてくる。
予定していた審理を体調不良で延期させてもらい、何の目的かもわからぬ内に成歩堂の事務所を訪ねたものの留守で、途方に暮れていたのだ。しかし成歩堂はそんなことは知らずにポケットに手を入れる。鍵を取り出すのかと思ったが、何故かそこで動作を止める。
「今、ちょっと立て込んでるんだ。中に入れるのはちょっと……」
「そうか。すまない」
彼の言葉に異議を唱えることなくあっさりと従い、階段を降り始めた私を成歩堂の慌てた声が追った。
「待てよ御剣!」
ゆっくり振り返ると、どこかばつの悪そうな表情の成歩堂がいた。私の足を止めさせたのを成功したことに、戸惑いを感じているようにも見えた。
「何かあったんだろ。……気になるじゃないか」
二人きりの室内で、話をするのには少し距離のある位置にお互い立ち、成歩堂は口を開いた。
「いきなり来るなんて、どうしたんだよ。ちょうど帰ってきたからよかったけどさ」
「何度か、電話を掛けた。だが、繋がらなかったのだ」
ぴくりと彼は特徴のある眉を揺らした。何か悪いことを言ったのだろうか。つられて眉を寄せる私に気を取り直した成歩堂がぎこちなく笑って言った。
「あ、ああ。ごめんごめん。今ちょっと壊れててさ」
そうか、と吐息と共に吐き出した。私が彼に縋るようにして、何度も電話を掛けたことを成歩堂は知らない。知らせることでもないと思い、口を閉ざして目を伏せた。
次の瞬間。沈黙を裂くように音が鳴った。一瞬それが何かわからずに私の反応は遅れた。それはテレビでやっている特撮ヒーローのテーマソングだった。それを着信メロディにしたものだ。彼がアレに興味があるとは考えにくい。あの、幼いところのある助手の少女の仕業なのだろうか。少し昔のことを思い出し、微かに気持ちが緩む。その気持ちのまま視線を持ち主に滑らせて───そこでようやく、気が付いた。
先に気が付いていたのは成歩堂だった。息を飲み、私を見る。その視線を正面から受け止め、見詰め合う内に。徐々にわかりだす。彼の、したことを。
「壊れてなど、いないではないか」
「…………」
私の感情を殺した尋問に彼は沈黙を返す。頬には苛立ちが浮かんでいる。タイミングの悪い時に鳴った、携帯電話に向けられているようだった。追求してほしくない様子が見て取れた。しかし私は口を閉ざさない。問い質すように言葉を繋げる。
「君は私を避けていたのか」
疑う余地もなく、はっきりと成歩堂は息を呑んだ。それは図星をつかれたという仕草だった。
ああそうか、と彼の返答を聞かずとも原因は思い当たった。私は、自分のことに精一杯で失念していたのだ。何とも身勝手な自分に腹が立った。
私がここに足を踏み入れる。それは即ちあの行為を強要させるためだった。扉の前で彼が躊躇していたことを思い出し、罪悪感に顔が歪んだ。
「怒って、いるのだろう?君に……あんなことをした私を。許せないのだろう。だから私を避けていた。君は忘れるといったが、そう簡単に忘れることが出来るはずがない」
自分で言って反吐が出そうだった。彼が怒っていない訳がない。訴えられてもいいくらいだ。それをわかっているのに敢えて聞いて追い詰めて。彼の最近の行動が彼の心情を示しているというのに。
こうやって言葉で聞いて、否定でもしてもらいたいのか。
そんな都合のいいことを考える自分が憎かった。
「……怒って、ないよ。忘れたって言っただろ。あの時」
しかし、成歩堂は驚くべき答えを返してきた。私は弾かれたように真正面に立つ彼の顔を見た。成歩堂はその視線に驚き逃げるようにして横を向いた。まるで私の視線から逃げるように。
そこで私は愕然とした。
嘘。
彼は嘘をついている。
彼もまた私に嘘をついている。
「怒っていないだと……?」
まるで地震の時のようにぐらぐらと世界は揺らいで軋むのに、おかしいことに私の声は全く揺れていなかった。逆に力がみなぎっていくようだった。怒りとも、絶望ともつかない感情で。
「では何故私を避けていたのだ。何故逃げた。何故だ。答えろ」
質問ばかりを繰り返す私に成歩堂は困惑しているようだった。眉を寄せ、何か呟こうとしているのか唇が微かに動く。それでも決して彼は私を見ようとはしなかった。何かこちらを見れない理由があるのか。それとも、何か。
嘘をつくようなことがあるのか。
落雷を受けたような衝撃が身を襲った。食いしばる奥歯にも、力の限り握り締める拳にも痛みを感じない。感じるとすれば、それは深い深い心の痛みだけだった。
嘘。誰も彼も私に嘘をつく。信じていた成歩堂龍一でさえも。
危機を悟った成歩堂が身を強張らせた。肩を強く押されたことでその身体は床へと倒れた。身じろぎする間も与えずにその上へと圧し掛かる。何事かと反射的に相手を見上げた成歩堂だが、突然詰められた互いの距離に息を詰めた。
「このようなことをされるから避けていたのだろう?私を許すなどと嘘までついて……」
口は笑っているのに、自身の言葉で私は深く傷付いていた。悲しい時には泣くものだと普通の人間は思うのだろう。しかし、私のように嘘で出来上がっている人間は涙など流れなかった。ひたすら絶望した後に生まれたのは純粋な怒りだった。
私を騙していたこの男をこのまま許すことはできない。
「違うんだ、御剣、聞いて───」
「黙れ」
様子に気が付いた成歩堂がようやく口を開いた。必死に弁明を始める。しかしもう遅い。
その口でまた嘘をつこうとするのか。燃え上がった怒りのまま手のひらで口を塞ぐ。見開いた瞳に映るのは、どこまでも残酷に微笑む壊れた人間の姿なのだろう。
「言葉など、もう聞く必要がない」
全てが嘘ならば。