2017年3月2日 留置所 面会室
「君がボクの担当?やだなぁ、もっと他にいるでしょ、検事なんてさ」
取調べに訪れた私をその人物はそう言って笑った。その微笑みが友好的なものではないことを私は既にわかっていた。だから視線に含まれているだろう険を少しも隠すこともせず、相手に注ぎ続けていた。
「や。や。こわいなぁ、御剣ちゃんは」
巌徒海慈は大きな身体を丸め手のひらを胸の前で合わせる。留置所に囚われの身であってもその威厳に全く変化はなかった。それが余裕ともつかない奥深い恐ろしさを感じさせる。警察局だけでなく検事局までもを掌握していたという事実は虚威ではないのだ。
「ナルホドちゃんは元気?」
私を担当検事と認めるつもりがないのかそんな世間話を振って来る。私は苛立ちを隠さずに目の前の机を叩いた。私の激しい行動に巌徒海慈はニヤリと唇を歪めた。
「ほんとめんどくさい男だね。御剣ちゃんは」
「私は貴方の罪を証明しに来たのだ。……話してもらおうか。貴方が多田敷捜査官を殺害した方法。罪門検事を殺害した動機を」
警察局と検事局の双方を巻き込んだ事件───その発端となったSL9号事件から、この男は動いていた。己の権力を手に入れるために。成歩堂の働きによって全てが明るみになったのだ。巌徒海慈の殺人。宝月巴の捏造。そして、それが私の担当した法廷であることも。
「わからないかなぁ。御剣ちゃんならボクの気持ち、わかってくれると思ったんだけど」
「ふざけるな!」
隠すことなく苛立ちの塊を吐き出した。薄いガラスで仕切られた翡翠色の瞳が私を捕らえる。強い意志と圧力。それを全身で感じつつも私はそれに応えた。
「もう一度聞くよ。……御剣ちゃんは、何のために法廷に立っているの?」
「私は……!」
限界に達しつつある感情を抑えるために、一度言葉を切る。質問に質問を返してくるのは挑発だ。それにみすみす乗ることはない。
「犯罪が憎いからだ。罪には、罰を。それが私の信念だ。それは、貴方も同じはずだ」
「素晴らしい解答だね。さすが御剣ちゃん」
低く静かに答えた私を巌徒局長は手を叩いて誉めた。終始馬鹿にされているのは気が付いていた。私が何と答えても彼はこうやって笑うのだろう。
しばらく朗らかに笑った後。巌徒局長は一瞬で笑みを仕舞い込む。明らかに表面的な笑いだったのだろう。ネクタイの結び目に指を重ね、ニヤリと一度笑う。
「言っただろう?君はボクと同じ匂いがする。いつか、限界を知るはずだよ。警察と検察のね」
「限界だと……?」
犯罪者の話など取り合う必要もない。そうも思ったが、彼の言葉は説得力に満ち溢れている。そう感じるのは局長の言うとおり、私が彼の思考に近いものを持っているせいなのだろうか?
私は慎重に次の台詞を促した。
「考えてごらん。人を殺した殺人者が証拠がないということで無罪になろうとしている。減刑されようとしている。そんな時に君は、指をくわえて見ているというのかい?」
「かといって、捏造など犯せば犯罪者と同じ罪を背負うことになるではないか!」
歪んだ法廷を自ら作り出した相手に怒りが限界に達した。立ち上がり激昂した私を当然のものとして巌徒局長は受け止める。
「マジメだねぇ、御剣ちゃんは」
次ににこりと笑い、黒い手袋に包まれた手を軽く打ち合わせる。
「嘘は、誰だってつくものだよ。犯罪者だけじゃない。警察も、検察も。ね?現にボクも、巴ちゃんもついてたでしょ?別におかしな事じゃないよ」
「そんな、はずは……」
首を振って否定する。いつものように声を張り上げ、朗々と反論を。そう思うのに喉が固まっていく。声を奪っていく。
───嘘をつかない人間がいると思うのか?
冷静に問いただす声があった。それは目の前の男からではなく、自分の内から発せられる疑問。今まで何度も法廷に立ち、人が嘘をつく現場に立ち会ってきた。罪を逃れるためならば誰でも嘘をついた。私はそれをこの目で見てきたのだ。
「嘘など……私は……」
自己本能で隠していた事実を目の前に突きつけられる。目を閉じ耳を塞いで押し隠してきたのに。何故隠してきたのか?それは───
先生、の……言っていたことも。全部嘘だったのだ。
私の思考を鋭く読んだ巌徒局長が呟く。
「狩魔豪の言うことも嘘だったんでしょ?御剣ちゃん、ずっと騙されてきたんだよね。父親を殺したのは狩魔豪だったのにね。その父親だって嘘ついたんだよね。犯人は係官って言ったんだって?メイワクな話だよねェ。霊媒なんて馬鹿らしいことまでやっちゃったのに」
心に受けた衝撃がそのまま痛みに変わったように感じた。思わず私は座り込む。自分の胸を押さえながら。
追い討ちをかけるように、その上から巌徒局長の声が降ってきた。
「御剣ちゃんって可哀想だね。みんなに嘘ばっかりつかれて」
2017年3月2日 地方裁判所 被告人第1控え室
私は裁判所にいた。
担当している審理はあと数分で始まろうとしている。法廷記録を手に持ち、後は法廷に足を踏み入れるだけだ。だが、私の足は鉛のように重く、動かない。
───嘘は、誰だってつくものだよ。犯罪者だけじゃない。警察も、検察も。
巌徒局長に言われた言葉が頭から離れなかった。
自分が歩んできた道も、それを形作るものも。全てが嘘だったというのか。検事の自分も、そんな自分がひたすらに求め手に入れてきた有罪という判決も。
ひらりと、両手から紙が逃げていく。拾おうと手を伸ばし、気付く。それも嘘かもしれない。嘘で捻じ曲げられた証拠品リストなのかもしれない。そして、伸ばした手に気付く。これも嘘なのだ。嘘の教えで、嘘の証拠品で、全てを嘘で……
自分は嘘で出来上がっている。
それは、壮絶な恐怖だった。
思わず両腕で自分の頭部を掻き抱いた。はっはっと短い間隔で息が落ちる。私の呼吸。自分の生命。存在している、確かなもの。だが、その時の私にはそれすら嘘に思えた。混乱でわからなくなっていた。今の自分が生きているのかも死んでいるのかも。
控え室の扉が軽くノックされた。
「御剣検事、そろそろ開廷です」
扉の向こうから私を呼ぶ声がした。
急かされても足は動かない。
真実がない。
私はもう、歩けない。