2017年3月1日 上級検事執務室・1202号
「……失礼いたします」
そう言いつつ頭を下げる。彼らの視界から自分が消えたことを扉が閉まる音で判断し、深く下げた上半身を起こす。廊下を歩いていくと自分の執務室の前で佇む人影が見えた。思わず眉をしかめる。
「御剣検事!あの、大丈夫……ッスか?」
糸鋸刑事は私の鋭い眼光に言葉を途切れさせてしまう。その様子からいって、仕事の用でここを訪れたのではないとすぐに判断がついた。さっさと職場に戻れと言い掛け、やめる。私に近い立場のせいで彼には随分迷惑を掛けてしまった。
「今回の件は減給で済んだ。二年前の件は……戒告処分のみだ。検事局としてもそれ以上の処罰は与えられないのだろう」
「そうッスか……」
査問会で決定したことを短く報告すると、糸鋸刑事は大きな身体を小さく縮めた。何故彼が傷付くのだろう。投げ掛けていた私の視線を糸鋸刑事は無言で受け止める。
巌徒海慈が犯した罪を、成歩堂と共に暴いた。そう言えば聞こえはいい。しかし、それで私が手放しに持ち上げられるかといえば、そうではない。
彼が裁判中に指摘したことは最もだった。青影丈は罪門直斗の殺害で裁かれ処刑された。しかし実際に殺害したのは青影丈ではない。結果だけ見れば、検事局は無実かもしれない人間を捏造の証拠品を使い有罪に陥れた。そうなってしまうのだ。
糸鋸刑事は私がそれ以上会話を続けられないことを悟ったのか、敬礼をしてその場を去った。途中何度も振り返るのを気付きつつも、私はそれを無視した。
一人、執務室に戻り椅子へと腰掛ける。
───周りの者が何を言おうが、自分の進むべきものは私が決める。
それは法廷で私が自分で宣言したことだった。私は確かに自分で決めたのだ。罪門検事が死亡し、後を引き継いだ私は大きな事件を任されたことに酔いしれ、通常よりも少ない証拠品リストに疑問を抱くこともなかった。
間違いのない、全て完璧な選択肢を選んできたはずなのに。いつの間にか道を誤ってしまった。
ソファの隅に置かれていた像が目に留まる。その底に毎年名を刻まれていた師は、今は留置所の中で刑の執行を待っている。
「先生……どうして、貴方は」
私をこの道に進ませたのでしょうか。
浮かんだ疑問に首を振る。違う、狩魔検事は私に検事になることを強制したのではない。私が自ら望んでこの道を選んだのだ。
選んだのに───何故。
ほんの少しだけあった思考の隙間に、ふいにあの男の声が入り込んでくる。
『君は、憎んでいるはずだ。犯罪者を……どうしようもなく。ボクにはわかる。キミは……ボクと同じにおいがするからね』
巌徒局長に言われた言葉はまるで呪いのように。私に纏わりついていた。逃れようとひとりでに上半身が傾いた。両耳を塞ぐ。きつくきつく、力をこめて。
ああやめてくれ。
私は、弱い。すぐに流されてしまう。特に才能もない小さな自分は、強者についていくしか道がないのだから。
無意識に腕を動かす。携帯電話を取り出した。見知った名前を呼び出しコールする。しかしそれは繋がらなかった。仕事中なのだろうか?通話を諦め、私は手に持っていた携帯電話を食い入るように見つめた。
成歩堂龍一。彼の名前がそこにある。
宝月主席検事が言っていた。私には成歩堂がいる。だから道を外すことなどないのだと。狩魔豪や巌徒海慈のように。
それは本当なのだろうか?私はもう何度も思った。法廷に立ち、憎き犯罪者を目の前にする度に。このままでいいのか。犯罪者を地獄に落とすには、何か他にも方法がないのだろうか
悪魔が囁く。耳をいくら塞いでも頭の中に直接語りかけてくる。先生も、巌徒局長もこの声を聞いたのだろうか。
ああ、誰か。誰か。
そんな時に、私が呼ぶ名前はやはりひとつだった。
成歩堂。成歩堂。どうか、私を正してくれ。常に前に立ち、その道へと私を導いてほしい。
無言で見つめるうちに、携帯電話はほのかな明かりをあっけなく消してしまう。ボタンを押し、小さな光を灯す。そしてまた、名前を見つめる。長いこと私は、そんな無意味な行動を一人繰り返していた。
不安に揺れる中、私に新たな事件が与えられた。