2017年2月24日 上級検事執務室・1202号
主席検事である巴さんの告白は法廷を揺るがした。
法の限界を知り、嘆いた結果。彼女が行ったのは証拠品の捏造。そして、その証拠品を使い実際に法廷で有罪を手に入れたのは───
「どうやら……少し、疲れたようだ。私の中の何かが死んでしまった……そんな気がしている」
先程まで辞表を書いていた御剣はそんなことを言う。自分の両腕を掻き抱き、苦悩に眉をひそめる。書きかけの辞表。御剣の表情。どれも冗談を言っているようには思えなかった。
裁判が始まる前から御剣の立場は微妙だとイトノコ刑事に聞かされていた。その発端は二年前にさかのぼる。SL9号事件で黒い疑惑に包まれ、ひょうたん湖の事件で容疑を掛けられ、車から死体が発見された事件の法廷で、捜査責任者としての手痛いミス。そしてその一番最後に、ついに御剣はとどめを刺されてしまったのだ。潔癖な彼が一番ダメージの受ける、証拠品の捏造という方法で。
「火のないところに煙は立たない……どうやら、その煙に巻かれて真実を見失っていたようだ。彼らは正しかった。私には……検事席に立つ資格などない」
「でも!検事さんは自分の仕事をしただけじゃないですか!」
「私のなすべきことは常に私自身が決めてきた。今回のこと……自分を許すことはできない」
当然のことを言う茜ちゃんの言葉は御剣には届かない。
ぼくはその様子に地団太を踏みそうなくらいに悔しくなった。違う。それは違う。担当した検事が御剣でなくても結果は同じになったはずだ。御剣のやったことは間違いじゃない。それなのに、必要以上に自分に厳しい御剣はそれが全て自分の責任だと思い込んでいる。
まるで去年の事件の時と一緒だ。
「成歩堂さん!早く、何とかしないと!」
見ると、茜ちゃんの方が泣きそうな顔をしている。自分の姉が犯したことで御剣の検事としての道を閉ざされることが、彼女の胸を苦しく圧迫しているのだろう。ぼくは頷き、くしゃくしゃになった御剣の書きかけの辞表をポケットに入れた。これを見せればイトノコ刑事も協力してくれるに違いない。先に出て行く茜ちゃんの後を追うぼくの背中を、御剣の言葉が追い掛ける。
「君は……何故そこまで私に構う?」
自分で言った後に御剣はふっと唇を緩めた。特別答えを求めていない質問だったようだ。今の御剣は自分に精一杯でぼくにまで向き合う気力はないらしい。
でも、その質問はぼくの胸を掴んだ。足を止め、言い返す。
「そんなの……心配に決まってるからじゃないか。お前が、ただ」
「庇う価値もない、私をか。私が君にしてきたことを本気で忘れたとでも言うのか?」
「それ以上言うな。怒るぞ」
茜ちゃんに聞こえないよう、低く小声で嘲笑う。その不快感をぼくはそのまま相手にぶつけた。御剣の言わんとしている事はすぐにわかった。
脅迫をされセックスを強要されていたこと。
その事実は今でも許せない。怒りのまま殴って、責めて罵倒して。そうしたい、そうしてやりたいと常に願っていた。
でも今となってはそれを実行しようとは思わなかった。
同情とはまた少し違う。いや、似たようなものだったのかもしれない。哀れみのような感情。手を差し出さずにはいられない。苦しむ御剣に背中を向けることなんて、絶対にできなかった。
あんなこと、他の誰かなら絶対に許せない。一生恨んで憎み続けるだろう。忘れるなんて優しいことは死んでも言ってやらない。憎んで憎んで、相手にも自分と同等かそれ以上の苦しみを味合わせてやりたいとまで思うかもしれない。
でもぼくはそんなものは望んでいなかった。
御剣を見る。言葉とは真逆の、縋るような、行き場のない目でこちらを見返してくる。綺麗で、綺麗過ぎて傷付くことしかなかった魂。
ぼくが。ぼくが許すのは。ぼくは、御剣だから。
「ぼくは、御剣だから───」
その時。静かに、自分の心の中で。
何かがことりと動いた。保っていた均等がずれた感覚。ほんの些細なずれなのに、それはもう二度と元に戻すことができない。
自分の中で起こったとても静かな変化に思わず口をつぐむ。自分ではそれを認めたくないし、向き合うことすらしたくないのに確実に変化は起こっていて、戸惑った。言い掛けた言葉を最後まで言うことはできない。
できなかった。今の自分には。
「いつまでここにいるつもりだ。……私は忙しい。帰ってくれ」
話すことをやめてしまったぼくから御剣はふいと視線を逸らす。また自分の内に戻ってしまった御剣を、また無理に自分に戻すことはやめた。最後に一瞥だけしてぼくは扉を閉める。
自分自身で気付いてしまった矛盾を、恐ろしく思いながら。