2016年12月30日 成歩堂法律事務所
ぼんやりと空を見つめる。俯き、何ともなしに両手を見つめて。溜息を吐く。
祭りの後というのだろうか。様々な物事が立て続けに起こったあの年末が過ぎ、年が明けた。その時期だけが特別なことであり今はこれと言って何もない平凡な日々が流れているだけなのに、妙な倦怠感がある。
いや、平凡ではあるが私を取り巻く状況は一変してしまっていた。十五年前に起こった事件───時効を迎えるはずだったそれは、真犯人の逮捕という劇的な終わりを迎えたのだ。
私が妄信していた狩魔豪検事の逮捕で。
「水」
グラスが目の前に置かれ、その説明がぽつりと落ちてきた。私は前屈みの姿勢は変えぬまま視線だけを持ち上げる。そこにはネクタイを乱し、微かに頬の赤い成歩堂が立っていた。私に出したものと同じグラスを傾け、中に入っていた水を飲み干す。
私は遠慮がちに手を伸ばす。酒の巡りで温かくなった手のひらに、ひやりとしたグラスの温度を感じた。何も考えずに一気に飲み干す。
「ああつかれた」
そう言って成歩堂は近くの窓に身体を預けた。私はソファに座ってその動作を無言で見つめていた。
「タクシー拾うなら早めに行った方がいいかも。この辺、終電が無くなるとタクシーも減るんだよ。普通逆だろ?」
先程まで私の無罪のお祝いにと集まって酒を飲んでいたのだ。唯一の未成年である真宵くんは里に帰っていたため、糸鋸刑事と矢張と私と成歩堂という何とも言い難い組み合わせであったが、意外にも話は盛り上がり終電間近まで店に居座ってしまった。久し振りに酒を煽った私は、駅までの通り道にある成歩堂の事務所に水をもらうために訪れたのだ。
「矢張の奴、相変わらずだろ?あいつには巻き込まれてばっかだよ。お前はしばらく会ってなかったから知らないだろうけどさ」
成歩堂は妙に喋る。酒の席では主に矢張が話していて、成歩堂は言葉少なに鋭い突っ込みをしていただけだったように思う。今になって酔いが回ってきたのだろうか。観察するように相手を見つめ続けるうちに、ふと成歩堂がその視線に気付いた。そして一瞬だけ目の色を凍らせる。だが、私が目を凝らす前にそれは消え去ってしまった。
そこで私は息を飲んだ。無駄な世間話などする時間の余裕はないのだ。彼が私の側に腰を下ろそうとしないことに今になって気が付いた。そんなことにも気付けず完全に気の抜けている己を叱咤し、長引きそうな彼の言葉に半ば強引に自分を介入させた。
「私は君に謝らなければならないことがある」
完全に虚をつかれた成歩堂は驚いて私を見た。そこで私の真正面から目が合い、ぱっと逸らす。逸らした後でしまったという表情をした。
「別に、ないよ」
愚かなほどに明らかな嘘を成歩堂は吐く。
「では……君が私に謝ってほしいことがあるのではないか?」
「ないって言ってるだろ」
私は謝る側なのにいつの間にか彼を追い詰めてしまっている。そう感じたがここで退くことは躊躇われた。このまま彼の態度に流されこの話題を後に延ばしてしまえば、私が彼に謝る機会は永遠に失われてしまう。
そう思った私は立ち上がった。そして、頭を下げる。
「すまない。私は君にひどいことをしてきた。謝るだけでは足りないが、私には他に出来ることがない」
何故か狼狽した成歩堂が慌てて私の前へと駆け寄ってくる。
「やめてくれ、御剣」
制止の声に私は口を閉ざす。今まで幾度となくそう懇願されても私は決して止めなかった。逆に嗜虐心を煽られ、更にひどく責め立てた。思い返しても出てくるのはひどい記憶ばかりで、私は自分の罪深さに目を閉じた。それは悪夢ではない。現実に、私が彼に行ったこと。
殴られても構わないと思った。殴られるだけで許されるのならば、何度でも殴られようと。そう思い、私は覚悟をして彼の目の前で頭を下げ続けた。
しかし、私に投げられたのはとても静かな言葉だった。
「……もういいよ。いいってわけじゃないけど、いつまでも引っ張ることじゃない。忘れた方がいいんだ。あんなことは」
予想外の許しに私は顔を上げる。そこには成歩堂がいる。私の目を正面から射るように見つめて。一言一言を心に浸すようにして言う。
「いいか御剣。君はお父さんを殺していなかったし、悪いことは何一つしていない。ぼくはそれを信じていたし、それを証明しただけなんだよ」
だから、君は悪くない。
それは清浄な許しだった。何の根拠もない、証拠もないただの言葉。嘘だと言えばそれだけで突き崩せるような言葉。でも私は、それがずっと────
「うわっ!」
気付くと目にも鮮やかな青色が視界の大半を占めていた。何が起こったのかわからず顔を上げると、同じく何が起こったのかわからないといった様子の成歩堂が私を見下ろしていた。私を体重を支えていたはずの両足にまるで力が入っていなかった。その場で座り込みそうになった私を成歩堂の両腕が救い、だが全てを支えることは出来なくて二人揃って床に座り込む羽目になったのだ。成歩堂の腰に両腕を回し、縋り付くようにして座っているおかげで彼の着ているスーツを至近距離で見ることとなったのだ。
やっとで状況を理解した私は弱弱しい声で謝罪した。
「ああ、すまない……」
「だから謝るなって!」
頭ごなしに叱り付けられ、足だけでなく全身が脱力する。手足の自由が利かず地に沈み込むようだった。裁判が終わってもなお抱えていた罪を、本人に許されたことで力が抜けてしまったのか。
「お前……酔ってる?」
「この状態で……酔ってないと思うのか……」
呆れを含む成歩堂の言葉に言い返す思考ははっきりしている。だが、それを吐き出す唇の動きはひどいものだった。普段とは比べようもない情けなくふらついた声に成歩堂は吹き出した。
「めんどくさい酔っ払いだな。まあぼくも酔ってるけど」
後頭部の上に、さり気なく置かれた右手に。
ああ、私はずっと。
許されたかった。大丈夫だと言ってもらいたかった。自分すら信じられない自分を、大丈夫だと、信じていると誰かに言って欲しかった。
夜になると不安が止まらなかった。子供の頃は涙が止まらずに溢れ、滅茶苦茶になった顔をベッドに押し付けて夜をやり過ごそうとした。でもいつの間にか悪夢は忍び込んできて、恐怖に跳ね起きることもあった。明日になれば必ず会えると思っていた級友たちに二度と会えないなんてことは考えたくなくて、楽しいことばかりを思い出そうとしては失敗し、一人泣いていた。
今までどこにも吐き出すことの出来なかった感情たちが溢れて溢れて、溢れて溢れて。私はしばらくその姿勢のまま成歩堂の手のひらを感じていた。そして、いつの間にか両目が熱くなっていた。
子供の頃と同じように、涙を止める術は見つからない。すーっと流れ落ちていった水滴を拭ってしまっては、この存在が相手に見つかってしまう。恥ずかしくて私はそのまま動かなかった。成歩堂も私を抱いたまま動かなかった。成歩堂の綺麗な青いスーツの色が、一箇所だけ小さく、濃くなっていた。