2016年12月25日 留置所 面会室
足がふら付く。未だ夢の世界にいるようだ。
右足を一歩踏み出した。次に左足。地面は揺らぐことなく私の体重を受け止めた。ああ大丈夫だ。地震はもうすでに治まっているのだ。私のいる世界は揺れていない。もう、大丈夫だ。
そうして私はとても深く長い息を吐き出す。
「遅くなりました。お待たせして、申し訳ございません」
溜息に似た深呼吸を相手には悟られぬよう、努めて低い声を作り出し頭を下げた。ほぼ直角になった腰をゆっくりと元に戻す。その間にも息を吐き出し、どうにかして体勢を整えた。
向き直った相手の顔には隠すことなく嘲りが浮かんでいる。私の努力などすでに見抜いているのだろう。私の、小さな努力や苦悩など。
「……時間が惜しい。貴様のために我輩の時間が割かれるとはな」
咄嗟に謝罪の言葉が口を付いた。私の目の前、透明のガラス越しに座るのは狩魔豪検事。爬虫類のように細い目を私にではなく机に立てかけた己の杖の方向に向け、呟く。
もう一度頭を深く下げると置かれている椅子に腰を下した。
師は私のことなど見ていない。吐き出される言葉はいつも、私にと言うよりも自らに語りかけているのだ。
検事になって以来全ての裁判において無敗を誇る、天才検事。その心中は凡人である私には計いしれない。
「御剣よ。我輩が聞きたいのは一点のみだ」
狩魔検事は私を見ない。私は、狩魔検事を見つめていた。
「貴様は殺したのか?」
私は、師からの問い掛けに対し思い悩む猶予など与えられていない。しかしこの問いには悩む余地がなかった。私はすぐさま首を横に振った。
「いえ……私は、何も」
そこでようやく狩魔検事は私を見た。蔑む目。師の目はもはや、弟子を見るというよりは犯罪者を見るものとなっていた。
わかっていたのにその事実に私は再度打ちのめされる。
狩魔検事は形式だけの質問を少しばかりしただけでそれ以上の言葉は何も言ってこなかった。被告人が誰であろうと───例えそれが数年目をかけた弟子であったとしても。彼にとってこれはただひとつの事件にしか過ぎないのだ。何かを知らず知らずの内に一人期待していた自分に、思わず笑い出しそうになる。目をかけた?誰が誰に?己が狩魔豪に目をかけてもらっていたなどと自惚れもいい所だ。
狩魔検事は顔色ひとつ変えずに、被告人である私を見遣ると無言で立ち上がる。耐え切れずに口を開いたのは私の方だった。
「狩魔検事!」
恐ろしくゆっくりな動作で師が振り向く。
自分が彼の期待に応えうるような愛弟子などとは思ってはいない。が、狩魔の教えを、検事としての全てを。彼の施しによって身につけたのは事実なのだ。
私は立ち上がり再び頭を下げた。場所は違えども、いつも彼の執務室で行っていたことを。
「大変、申し訳ございませんでした───」
そしてそのまま静止する。そのまま頭を下げ続けることは苦痛ではなかった。父を失ってからの数年間。私は常にこうしていたのだ。凡人でありながらも、完璧、そして圧倒的な力を持つ天才検事を追随しようと、必死に。
「……二流弁護士の息子はやはり二流というわけか」
下げたままの頭に狩魔検事の低い声が投げ付けられる。私はそれをその姿勢のまま受け止めていた。
弁護士であった父を詰る言葉ももう馴れたものだ。それがどんなに屈辱的なことであっても。胸を掻き毟り叫び出しそうなほどに、否定したくとも。
相対する立場であった父の息子である自分を、狩魔豪は見捨てることなく面倒を見てきてくれた。完璧にこだわり時には強引に裁判を進める狩魔検事に、弁護士の父は反感を持って敵対していたのだと後に知った。そんな鬱陶しい存在であった人間の息子を、検事に仕立て上げることは並大抵のことではないだろう。
私は法廷に立つ身としても、彼の一弟子としても。狩魔豪に対して尊敬以上の念を持っていた。だから、何を言われても黙って受け止めることしかしてこなかったのだ。
「最も、弁護士など最初から二流の者しかおらぬだろう。あの弁護士も何も出来ないくせに出しゃばりおって」
気が付いたら狩魔検事の視線が自分を捕らえていた。私が師の許しもなく自ら体勢を直したことに腹を立てたのか、その顔は不快感に染まっていた。
『あの弁護士』が誰を指しているのか。
青い影。ひたむきな黒い瞳。
それが脳裏に閃いた次の瞬間に、私は口を開いていた。燃え上がる感情のままに。
「私は自分の意志で成歩堂に弁護を依頼しました。彼は私を救おうと必死に動いてくれているのです」
唇が声を発する。そんな当たり前のことすら許されていなかった師の前で。
そうだ、私は。九歳の時から今まで己を殺すことばかりしてきた。そうすることが正解だと思い込んでいた。
だが、しかし。彼と再会したことでゆっくりと心が動き出したのだ。有罪で終わりかけた裁判で異議を叫んだ時も。それを師に咎められ、反論が口をついた時も。彼の行動に心が動き、押さえ込んでいた自分が解放された。
私のとるべき行動を決めるのは、私自身───そう言ったのは他でもない自分なのだ。
私を比類なき力で圧倒する双眸を見つめ返しながら。口を開く。自分自身の意志で。
「私は、決して……」
あなたの人形ではないのです。
最後まで言えなかったことに私は激しく自己嫌悪をした。
狩魔検事はそんな私を蔑んだ目をして見つめ返していた。腕を組み、顎を上げ。自分を優位に私を低位に立たせこう告げた。
「御剣よ。我輩が教えたことを言ってみるのだ」
犯罪者となったことで我輩の教えまで忘れたのか。
胸を直接打つ冷たい声に、私の燃え上がった感情はすぐさま鎮火してしまった。恐怖ともつかない苦しみが喉を押さえつける。もう何年も繰り返していた言葉だけを繋ぐ。
「罪には……罰、を」
ただひたすらに犯罪を憎むこと。犯した罪に相応の罰を与えること。
考える間もなく言葉が唇から落ちてくる。頭に身体に染み込んだ教え。
「弁護士風情に感化されたか?二流の男よ」
フン、とあからさまに嘲笑される。まるで耳を叩くような鋭い音。手にした杖で床を叩き、狩魔検事は立ち上がった。最後に短く言い捨てる。
「貴様は、被告人だ」
その一言で十分だった。
罪には罰を。犯罪者には容赦のない、徹底的な糾弾を。
私は師にそう習いその通りにしてきた。被告人が何を言おうとも耳を貸さずに有罪へと導く。被告人がどんなに足掻こうとも、例え自分は無実だと訴えようとも。
今まで自分がやってきたことを目の前で体現され、背筋が凍る思いだった。
狩魔豪は自分の仕事をするだけだ。私が自分を取り戻そうと、師に反旗を翻そうとも。彼の仕事には何の変化もない。完璧な証拠品、完璧な証言。それらで彩られた法廷が私を待っている。
私のやることは、ただひとつ。有罪という結末に落ちていくのみ。
俯いて自分の両手を見た。目を閉じれば、あの叫び声が鮮烈に甦る。ずしりと、何もない手のひらに重みを感じた。あの時手に取った銃の重み。あの時奪った、命の重み。
「……罪には、罰を」
もう一度教えを口にする。
運命からは逃れられない。