2001年12月28日 裁判所内エレベータ
苦しい。苦しいよ。
幼い私はそう言って泣く。けれどもその小さな訴えが大人たちに届くことはなかった。
極限状態に突然投げ込まれた私たちの中で、正常な思考を持つ人間は誰一人として存在していなかった。とても些細なことが目に付き、理不尽に捉え。相手を激しく攻撃することで状況を少しでも改善できるのだと、そんな馬鹿げた事を大人たちは考えていたのだろうか。
あの、時間の経過と共に徐々に空気の薄れていく空間では何もかもが異常だった。
二人の声の質が負の方向へと昂る最中、私は目立たぬよう膝を抱え存在を消しながら息をしていた。
寡黙だが法廷外では穏やかな弁護士の父も、凛とした制服に身を包んだ係官も。まるで人が違ってしまっていたようだった。自分の気が付かない内に、誰か他の人物とここに乗り合わせてしまったのではないかと、私は泣きながら考えていた。
『オレの空気を吸うな!い……息の根を止めてやる!』
『う……うわっ!何をする……やめろ……!』
声とは別に、二人の人間がもみ合う音が突然響く。
私は弾かれたようにして伏せていた顔を上げた。そして、幼いながらにも父親の危機を悟った。いや、幼いからこそその危機を過大なものとして感じ取ったのかもしれない。
おとうさんが危ない───
弁護士である父を盲信していた私はその状況に血の気を失った。
助けなくては。助けないと、父が死んでしまう!
膝を抱える格好を急いで崩し、両手両足を床についた。四角い闇の中、さ迷わせた指先に触れたのは硬くて冷たいもの。ピストルのもの。
テレビや裁判での証拠品でしか見たことのないそれが、今現実として自分の手の届く場所にある。
私は夢中でそれを手に取った。使い方などわかるはずもない。
わかっていたのはそれが人の命を奪えるということだけ。
そう、わかっていたのに。
そう、わかっていたのだ。
(ぼくのおとうさんから……おとうさんから、はなれろぉっ……!)
私は無我夢中でそれを投げ付けた。方向なんてわからない。
ただ、投げた。
そして人の命を奪ってしまった。
誰よりも大好きだった。誰よりも尊敬していた父親の命を。
■
耳が壊れるような、つんざくような悲鳴を聞いて飛び起きた。
息苦しさを解消したい一心で息を吸う。動揺でうまく出来ない。私は一人もがきながら呼吸をする。苦しい。
額にはびっしりと汗が張り付いている。それを拭う余裕もなく私はベッドの上で頭を抱える。そのまま両手を滑らせ、自分の顔を覆った。手の平の大きさにやっと安堵する。
私は、九歳の少年ではない。
あれは、夢なのだ。
呼吸が落ち着いてきてようやくその事に気が付いた。それと同時に現実も自分の元へと戻ってきた。
あれは、実際にあった記憶なのだ。
私は、父親を殺した。
「おとう、さん……」
掠れた声で呼んだ声も少年のものではなかった。
あれから十五年間。毎晩見ているはずなのに一向に馴れる事の出来ない悪夢。私は今でもそれに苦しめられていた。
遠ざけようとしてもそれは夢として毎晩甦る。それならばと眠る事を極力諦め、仕事の中に自分を置く事を続けていた。それでもその悪夢が薄まる事は決してなかったが。しかし、検事として法廷に立ち、被告人を有罪へと落とすことで妙な安堵を覚えることが出来た。犯罪を過剰に憎むことで、何とか己の精神を保っていた。
そして、時効を迎える年になって───ついに。
それは突然、私の目の前に突きつけられた。
当時、クラスメイトだった男が過去の私を求め会いに来たのだ。