2016年10月29日 成歩堂法律事務所
「私がこの事務所に訪れた時、何をしたか覚えているか?」
私の問いに成歩堂は言葉を返すことすらしなかった。
今更何を言っているのだろう……強い瞳がそう物語っていた。私は成歩堂のその反応を当然のことのように受け止めた。そう、彼は何も知らないのだ。
「御剣………」
「どうやら、気づいていないようだな」
成歩堂は怪訝な表情で私を見つめる。微笑みながらそう返すと成歩堂は目を瞠った。そして、掠れた声で問い掛ける。
「何がだ……?」
「盗聴だよ、成歩堂」
成歩堂の瞳が凍りついた。
黒く大きな瞳の中に映りこんだ私がにやりと笑うのが見えた。
「いや、盗撮だろうか?この事務所の中にカメラを仕掛けていたのだよ」
掴む私の腕を振り払うことも、声を張り上げ問い詰めることもしないで、成歩堂は私の言葉を聞いていた。表情すら固まったままだ。
しかしその反応も私が予想していたものと全く同じものだった。彼をもっと追い詰めるべく、私は指先に力を込めた。痛みと恐れで成歩堂の顔が歪む。
足を進めると、成歩堂は目を伏せて俯く。お互いの距離が近付くことを恐れる彼は、じりじりと壁際へと追い詰められてしまった。
逃げ場を冷たい壁に無常にも阻まれ、成歩堂は唇を噛みしめる。
「当初の目的は……そうだな、小中氏と同じ様なものだったが」
そこをすかさず狙い、私は顔を近づけて彼の耳元で囁いた。
見てもわかるほどに彼の身体が揺れる。私は彼の頬に息が触れるようにしてゆっくりと言葉を切りながら、さらに追い込む。
「綾里弁護士はやり手で有名な弁護士だ。……しかし彼女は死んだ。その事務所にどれ程の情報が隠されていたのか……検察庁がそのまま放って置くと思うか?」
私の口から明かされる真実を成歩堂は無言で聞いていた。何の反応もない彼を無視して私は言葉を続ける。
「君という素人同然の弁護士が所長となった今を、逃すわけがないだろう」
そこまで言ってもまだ、成歩堂は何も言おうとしない。
意味が理解できていないのか、と一瞬疑ったが、掴む身体の震えが徐々に大きくなることに気がつく。
私はそのことに言いようのない喜びを感じた。───可哀想に。思わぬ事実に声も出ないらしい。
怯える成歩堂の身体を追い詰め、種を明かす行為は思いのほか楽しいものだった。自分でも悪趣味だな、と表情には出さずに心の中で笑う。
「検事局長の命令で、私はこの事務所に盗聴器を仕掛けた。……それとは別に盗撮機を仕掛けたのは個人的な思惑からしたことだったが」
そこまで言って私は一旦言葉を切る。二人の距離を詰め、さらに声を低く作り。強張りを増した成歩堂の耳のすぐ側で囁いた。
「おかげで面白い物を撮る事ができたようだ」
私のその一言に成歩堂は目を閉じた。きつく、何も受け付けないという様に。両目を閉ざして首を振る。その彼の唇は驚くほど真っ白で、見ると小刻みに震えているのがわかった。
その様子に私の中の悪魔はさらに巨大となる。
私はこみ上げてくる笑いを必死に噛み殺しつつ再度口を開いた。さらにひとつ、ある事実を告げるために。
彼をさらなる暗闇の果てに突き落とす、最も効果的で面白い種明かしをするために。
「今日訪れたのは、先日撮影したものを君に渡すためだったのだが……」
成歩堂はやっと顔を上げた。先程までの怯えを奥に潜めた瞳で間近の私を睨みつける。
私はそこでふっと表情を緩めた。
成歩堂の視線が私に向いていることを確認すると、唇の端をそれぞれ持ち上げて微笑む表情を作り出した。その突然の変化に成歩堂の眉が不審に歪む。
私は掴んでいた彼の腕をやっと解放すると、空いた右手をゆっくりと自分の胸の前まで運ぶ。そして謝罪の意を込めて頭を垂れ、優雅に微笑みこう言った。
「……すまない。手違いで、あの少女に渡してしまったようだ」
「!」
成歩堂の表情から怒りが消える。いや、怒りだけでなく全ての感情が彼の顔から抜け落ちた。あまりに強い衝撃で表情を作り出す余裕もないのだろうか。
しばらくして。
すぅ、と成歩堂の唇に息が吸い込まれる。
「なるほどくん!?」
次の瞬間、狭い事務所に甲高い少女の声が響き渡った。
私の前から走り出した成歩堂が事務室の扉を乱暴に開き、中にいた少女に掴みかかるのが見えた。成歩堂は少女から手を引くと、次に机の上に置いてあったDVDを激しい勢いで手に取る。その突然の出来事に状況を読めない綾里真宵が狼狽して成歩堂に問い掛けた。
「何、どうしたの!?なるほどくん!」
「真宵ちゃん、これ見た?」
成歩堂の尋常でない様子と低い問い掛けに少女は一瞬、言葉を失う。そして怯えの色を隠せない表情で数回首を振った。
「まだ見てないよ……なるほどくん、どうしたの?」
少女の返答に、成歩堂の身体がゆっくりと床に崩れ落ちた。綾里真宵は泣きそうな顔で座り込む彼を見下ろす。そして扉の側に立つ私の姿に気がつくと小さく息を飲んだ。黒い瞳が恐怖に揺れる。
「ごめん、真宵ちゃん。……今日はもう帰って」
成歩堂が俯いたままそう呟いた。突然の命令に少女は困惑したらしい。無言で立つ私をちらりと見た後、自分も床に膝を付いて座りこむ成歩堂と視線を合わせる。
「なるほどくん……」
「うん、大丈夫だから。もう帰って」
恐る恐る掛けられた声に成歩堂は短く応えると、再度命令する。有無を言わさぬその命令に、綾里真宵は戸惑った様子で首を傾げる。しばらく無言で成歩堂の顔を覗き込んでいた後、ようやく腰を上げた。
それでも座り込んだまま動かない成歩堂に視線を落とす。
「あたし……帰るね」
「うん。また明日。……本当にごめん、真宵ちゃん」
綾里真宵は成歩堂の返答を最後まで聞くと、やっと顔を上げた。二人のやり取りを無言で見守っていた私と目が合うと、さっきまで動揺したように揺れていた黒目がきつい光を持って睨み返してきた。私はそれに優雅な微笑を向ける。
小さな足音が床を移動し、最後に扉がぱたりと閉じる。
そしてまた、私と成歩堂は二人きりになった。
成歩堂はその場から動こうとしなかった。DVDを握り締め、俯いて無言のまま。
私は側の壁に寄りかかると腕を組んで彼の様子を観察する。明らかになった事実に、彼がどう出るか───その行動や言葉の様々なパターンを頭の中で思い描きながら。
「何がしたい」
しばらくしてとても苦しく、まるで押しつぶされたように掠れた声で成歩堂は私に問うた。顔は床に向けたまま。相当私に嫌悪感を抱いているらしい。その背中から負の感情があからさまに伝わってくる。
「こんなことをして……目的は何なんだ」
言葉と共にもうひとつ別の音が耳に届いた。何か無機質なものが擦れて拉げる音。見ると、成歩堂の手がDVDをケースごと床に投げつけた音だった。しかしそれは破壊できなかった。それでも成歩堂は止めようとしなかった。
透明のケースにひびが入っただけのそれを、成歩堂は記録されている物を全て消去するように、荒い手つきで殴りつける。まるで自分の脳からもその記憶を消し去ろうとするように。
「何だろうな?自分でもよくわからないのだが」
その様子に嘲笑を浮かべていた私がそう答えてやると、成歩堂は弾かれた様に顔を上げる。
絶望に暗く染まっていた瞳が見る見るうちに甦っていく。
怒りの感情が彼の黒い瞳を浸していく様を、私は微笑みながら見ていた。
「ふざけるな!」
激しい怒号と共に壊れたDVDが投げつけられる。続いて成歩堂は立ち上がると、壁に寄りかかっていた私の襟を掴む。フリルタイを力強く握られ、間近で睨みつけられても私は笑いを収めることができなかった。
彼の反応を見るのが心底楽しい。
その表情に成歩堂の怒りがついに頂点に達したらしい。私が訪れてから頑なに避けられていたはずの視線が、ついに真正面からぶつけられた。
「何でこんなことするんだよ、御剣……!」
「私にそんな態度をとっていいのか」
怒りのまま怒鳴る成歩堂に私は笑いながらそう言った。彼の瞳が一瞬、ぎくりと固まる。
「コピーが存在していると言ったら?」
「!!」
襟首を掴む力がさらに増す。しかし、それは次第に緩くなっていった。怒りに震えていた成歩堂の瞳も次第に色を失っていく。私の襟元を握っていた力はついに全て無くなり、成歩堂の両腕は力なく降ろされた。
その代わりに今度は、自分の腕を持ち上げる。 そして成歩堂の頬を両手で包み込んだ。右手の親指を動かし、挟みこんだ耳朶を指で擦り合わせる。ゆっくりと執拗に、何度も何度も。
その動きに成歩堂は不快感に顔を歪める。頭を振り、私の手と動きから逃れようとした。彼のささやかな抵抗を罰するために、私は片足だけを持ち上げた。突然、足と足の間に他人の足を割り込まされて成歩堂は狼狽した。その隙を狙って私は左手を彼の耳から腰へと移動させた。そのまま乱暴に自分の方へと引き寄せる。
身体は反転し、今度は私が成歩堂を壁に押し付ける形となった。
「!…なっ…、はなせ!」
離れようと成歩堂は身を捩る。私はそれを決して許すことはなく、割り込ませた片足をさらに持ち上げた。そして刺激するように上げ下げする。
私の布越しの腿に下半身を強く押され、成歩堂は身体を震わせた。そのまま抱き寄せ、側にあった彼の耳朶を食むと成歩堂の身体はさらに大きく震える。舌を尖らせて耳の縁を辿る。同時に足で、彼の敏感な部分に刺激を与えつつ。
「……!御剣ッ…!」
「君に拒否権はないのだよ、成歩堂」
両腕で私を押し返そうとした彼に、低い声で囁く。唾液で濡れた耳朶に自分の熱い息を容赦なく吹きかけながら。