2016年10月20日 検事局 上級検事執務室
「どういうことだ。御剣」
その重い声は、問い掛けではない。
強い怒りと深い失望と。そして、どこか愉しむような嘲りと。
狩魔検事は手にした資料と、正面に立つ私の顔を見比べた。そして薄い唇を歪めて嘲笑を作る。
「二度も敗訴するとは……」
「申し訳ありません」
私は間髪をいれずに謝罪の言葉を口にした。しんとした重苦しい空気が部屋に流れる。
沈黙に耐え切れなくなった私は視線を狩魔検事から外した。彼の後方にある棚にぎっしりと詰め込まれた書物をじっと睨みつける。
私はここ、狩魔検事の執務室ですべてのことを習い覚えた。
検事としての自分を作り上げ、そして検事としての自分を制しているのが、この目の前の人物。
狩魔豪検事だ。
「狩魔の名に泥を塗る気か?」
いいえ、と首を振る隙すら与えられていなかった。狩魔検事は右手を上げる。そして、その手に握る白い杖を私の胸に突きつけた。
「……これ以上、失望させるな」
私の身体に触れているのは杖の先端という狭く小さな場所だけなのに、
ただそれだけで私はこの目の前の人物にひれ伏してしまう。 そのように育てられたのだ。
完璧という言葉を掲げてこの師は私を支配している。
蔑むような視線を受けても私の心中は穏やかだった。いや、穏やかというのとはまた違う。何の感情も生じない。余計な感情を捨て去ること───それも、この師の教えのひとつである。
私は無表情のまま口を開いた。
「ご心配いただき、ありがとうございます。先生」
その時ふいに、胸の内に蘇る一人の声。真っ直ぐに問い掛ける目。
先日の裁判の直後に。改めて決別を突きつけた私に対して、投げ掛けられた彼からの言葉。
───それは余計な感情じゃないだろう?
「しかし」
気がつくと私は、無意識のうちに言葉を吐き出していた。検事席から異議ありと、咄嗟に叫んだあの時のように。
固まってしまった喉と唇を無理に動かし、言葉をゆっくりと紡ぎだす。
「私のとるべき行動を決めるのは、私自身です」
そして、先程の法廷で述べた言葉と全く同じ言葉を口にした。狩魔検事は私を見つめたまま表情を少しも崩さなかった。
再度何かを口にしようと小さく息を吸い込んだ時。 さらに強く、彼の持つ杖が私の胸に押し付けられた。鈍い痛みに顔が歪む。 ぐい、とまた力を込められ身体が後方に動いた。
「貴様の意思など必要ない」
そう言うと狩魔検事はやっと表情を変えた。
蔑みの表情を作り出した師はその唇を歪めて私を笑う。
「貴様のとるべき行動を決めるのは貴様ではない。我輩だ」
その言葉は黒く重い塊となり、彼の前に立ち尽くす私と私の心にずしりと圧し掛かった。