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2016年10月18日 英都撮影所

 

 


  何度目かの現場に足を踏み入れた時だった。
 慢性の睡眠不足に悩まされていたぼくは、軽いめまいを起こして床にしゃがみこんだまま動けなくなってしまった。
「なるほどくん?大丈夫?」
 心配そうにぼくを覗き込む真宵ちゃんに首を振って答える。けれど立つことができなかった。ぼくの青い顔に動揺した真宵ちゃんは慌てて人を呼びに行ってしまった。
 ぼくは壁にもたれ、腰を下ろしたまま息を吐き出す。
 今、ぼくはある撮影所で起こった事件を担当していた。殺人事件の起こったスタジオは閉鎖され、人気が全くない。眩む瞳を閉じ、額に浮かんだ汗を拭う。
 こんな所で座っている暇はない。
 依頼人は無実の罪で拘束され、ぼくの助けを待っているのというのに。
 検察側はまた、明らかな証拠品をいくつも提出してくるだろう。手に持った鞄を強く握り締める。
 検事の卑劣さはこの前の裁判でわかった。嘘でも何でも、とりあえず有罪判決をもぎ取ろうとする。
 頭の中に検事席に立つ一人の男の姿が甦った。
 不敵な笑みを浮かべ、罪状を無実の人間に押し付けようとするあの男───絶対に、許さない。
 ふと前方に人の気配が現れた事に気がつき、目を開く。
ぼやける視界の中、確かに感じるのは他人の気配。ぼくは目を凝らしてその人影に呼びかけた。
「真宵ちゃん……?」
「久しぶりだな」
 ぼくの呼び掛けに、返ってきたのは低い声。
 その声にぼくの身体はびくりと震えた。今一番、ぼくが恐れているもの。こうして体調を狂わすのも、ここまで恐怖を感じるのも。目の前の男にされた行為が脳に、身体に、染み付いているからだ。
 忘れもしない。あの日のこと、されたこと全部───
 立ち上がって逃げたかったのにぼくは動けなかった。恐怖が身体を支配して動かない。
 ぼくの怯えた様子を見て、御剣は笑った。とても冷たい表情のまま。
「ひどい顔色だ」
「触るな!」
 言葉とともに伸ばされた手を思い切り跳ね除ける。
 今はこの男と同じ空気を吸っているだけでも不快だった。何でこの男がこの場所にいるのだろう。
 ぼくの視線に気づいたのか、御剣が手に持っていた封筒を示す。
「フッ……素人弁護士に、この私が二度も相手になってやるというのだ。感謝したまえ」
「!」
 封筒に書かれた事件名にぼくは目を瞠った。それは今まさにぼくが追いかけている事件の名前だった。
 またこの男と同じ法廷で争うことになるなんて……
 ぎり、と歯を噛みしめ御剣を睨みつける。
「君が私に勝訴したことは、まぐれだろう?自分でもそう思わないのか?」
 答える気もしない。無言で睨みつけるぼくを御剣は目を細め笑った。
「全く……おめでたい男だな、君は」
 これ以上、この場にいることが耐えれなかった。
 力の入らない足を無理矢理奮い立たせ、壁に手をつき何とか身体を支えた。嘲笑を浮かべる御剣を無視し、その横を通り過ぎようと一歩踏み出す。
 全て忘れてしまいたかった。記憶のひとかけらさえ、残していたくない。
 この男は幼い頃の同級生で、そして今は相反する立場につく検事で。
 それだけだ。ぼくたちの間には何もなかったし、何も起こらなかった。
 頭の中で自分に言い聞かせ、スタジオの出口に向かおうと足を進めた時。御剣の静かな声が人気のないその空間に響いた。
「あの日……ホテルのあの部屋は使用されてなかった」
「え……?」
 突然の発言に、ぼくは咄嗟に奴を振り返る。
 御剣は表情を消してぼくを見つめていた。そしてその表情のまま言葉を繋げた。
「君の姿は、誰にも見られていないということだ」
 御剣の言葉にぼくはほっとした。全然安心できることではないのに、最悪の事態は免れることができた。
 そう思った。ぼくの顔を見つめた後、御剣は口の端を上げて笑った。
 その笑みはあの日、あの行為の前に見せたものと全く同じものだった。言いようのない恐怖を感じてぼくは声を失う。御剣はその双眸を細め冷たく笑う。
 そして何も言えないぼくにこう告げた。
「私以外にはな」
「………!!」
 瞬間、頭の中で何かが切れた。重い身体を動かし、拳を作り殴りかかる。ぼくの突然の行動に不意をつかれた御剣はぎりぎりのところで拳を避けた。そこをすかさず追おうとすると、御剣の伸ばされた手に手首を捕らえられてしまった。
 振りほどこうとしても振りほどけない。あの時のことが脳裏によぎり、恐怖に身体が強張ってしまう。怯んだわずかな時間にもう一方の腕を掴まれ、そのまま壁に身体ごと押し付けられてしまった。
「御剣……!」
 怒りで目の前が赤くなる。心臓の音が自分の中で大きく響く。
激しい感情を露わにしたぼくを見ても御剣の表情は全く変わらない。微かな笑みを浮かべていた御剣の唇が動く。
 そして、ぼくを絶望の底へと突き落とす。
「あの日、何の用意もせずに君を抱いたわけじゃないだろう……?」
「やめてくれ!」
 悲鳴のような声で否定し、目を閉じ首を振る。
 その瞬間まぶたの裏にあの日のことが鮮明に甦ってきて、ぼくはすぐに目を開いた。薄い笑いを浮かべた御剣と正面から目が合う。
「君の身体に苦痛を与えたつもりはないが?」
「黙れ……」
 ぼくは吐き気をこらえつつ、また首を振る。
 微かに震えるぼくの手に気がつき、御剣はさらに唇を歪めて笑った。
 怖い。
 思い出すだけで身体が震える。
 どのくらいの時間かもよく覚えていない。すべて閉ざされ、作られた暗闇の中。御剣はぼくに触った。髪に、頬に、唇に。肌を撫で回され、舌を這わされて。
 そして誰も触れたことのない場所まで指を差し込み、閉じようとする肉を乱暴にこじ開けて。
 その欲望をぼくの中に───
「……やめろ…」
 呻くように呟くぼくを見て御剣は満足そうに笑った。
 何がおかしいのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。その顔を思い切り殴ってやりたかった。
 でも、ぼくはそれをしなかった。今はただこの場から逃げたい。……怖い。
 無理に封じ込めていた記憶が俄かに甦ったおかげで、自分の身体すら気持ちが悪くなった。この身体のどこも、奴が触れていない場所はない。そう思っただけでぞっとした。
 もう一度笑うと御剣は黙ってしまったぼくの手をはなした。
 ぼくは力を失い、背を壁に預けたままその場にへたり込んでしまった。俯いていたままの耳に御剣の冷たい声が届いた。
「法廷で会えるのを楽しみにしている……」
 遠ざかっていく奴の気配を感じながら、ぼくは震える両手で自分の耳を塞いだ。
 きつく目を閉じ、唇を噛みしめる。
 あいつは幼い頃の同級生で、そして今は相反する立場につく検事で。
 それだけだ。ぼくたちの間には何もなかったし、何も起こらなかった。
 心の中で何度も、そう自分に言い聞かせながら。
 それでも先ほど捕まえられた手首の痛みと、数日前の消しきれない記憶が全身を支配してぼくは、その場に座り込んだまましばらく動くことができなかった。







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