トン、と肩を叩かれて現実に戻る。見ると、真宵ちゃんが横に立っていた。
「どうしたの?なるほどくん」
 黒く大きな瞳がこちらに向いている。それを見返している内に思考が過去から今に戻ってきた。少しだけ固まってしまっていた表情をゆるゆると崩して笑みを作る。
「どうもしないよ。ごめんね、急にお使い頼んじゃって」
 右手を差し出すと、真宵ちゃんは首を横に振りながら表に何も書かれていない封筒を渡してきた。中を確認し、目を合わせるとにっこりと笑う。この寒いのに短い着物の裾を翻し、改めてぼくの隣に並んだ。
「あー寒かった」
「コーヒーでもおごるよ」
 そう言って先に歩き出す。あたしココアがいい、と背中から声が追い掛けてきてぼくははいはいと頷く。カフェテリアに向かいつつ、真宵ちゃんはぼくの抱えていた法廷記録をちらりと見た。
「始まっちゃうと思って急いで帰ってきたんだけど。もう終わったの?」
 まるでテレビ番組について話しているみたいだ。思わず苦笑してしまう。
「何の問題もなくすぐに終わったよ。真宵ちゃんがいなかったからかな」
「人を問題児あつかいしない!」
 即座に突っ込まれたけど、彼女が絡む裁判はいつも高い確率でやっかいなことになる。一緒に法廷に立っているぼくがそう思うんだから確かだ。でもそう言ったらまた突っ込まれそうだから黙っていた。
 エレベータに乗って、ボタンを押したところで何かを思い出したのか真宵ちゃんがぼくを見上げた。
「あ。相手が御剣検事だったらまだまだやってたんじゃない?」
 突然、奴の名前を出されて思わず真正面から見つめ返してしまった。ぼくのその反応に驚いた真宵ちゃんがまじまじと見返してくる。何だかばつが悪くなり、目を逸らして呟く。
「どういう意味だよ」
「だって御剣検事だったらなんでもかんでも異議唱えてくるじゃない?」
 なんでもかんでもとはヒドい言われようだ。眉間にヒビを刻み怒る御剣がまた鮮明に思い出されて、ぼくは無理にそれを押し込んだ。そんな思い出してばかりいたら、どれだけ会ってないかが身に応えて──苦しくなってしまうから。
 真宵ちゃんから視線を外したまま、話題を変える。
「ぼくも昔、問題児だったかも」
「もんだいじ!」
 そう繰り返して真宵ちゃんは笑う。別に笑わせるようなことを言ったつもりはないんだけど。
「笑うなよ」
「なるほどくんが?ほんとに?何したの?」
「友達とケンカして親に電話された」
 えええ、と真宵ちゃんはオーバーに驚いて笑う。だから笑うところじゃないんだけど、という突っ込みを今度は真宵ちゃんがはいはい、とさらりと流したところでエレベータが目的の階に到着し、目の前の大きな扉が開く。
「なるほどくんもワルだねぇ。お金盗んだりケンカしたり」
「待った!人聞きの悪いことを言うなよ。大体あれは矢張が……」
 そんな風に二人でじゃあれないながらカフェテラスへと足を踏み入れた。お昼過ぎの時間帯でそこそこ混んではいるけど満席ではない。空席を見つけ、真宵ちゃんがそこを指差してこちらを振り返る。
「御剣検事が──」
 その時、聞きなれた名前が聞きなれない声で呼ばれ、ぼくも真宵ちゃんも同時に声のした方向を見た。
 そこには三人の男性が自販機で買ったコーヒーを啜りながら立ち話をしていた。その人たちはぼくたちの視線にも、自分たちの声が大きくなっていることにも気付かないほど話に熱中しているようだった。
 どうやら御剣と同じ検事らしい。聞きたくもないのに声が大きくて、噂話のネタにされている名前ばかりが耳につく。
 御剣検事。御剣。
 会話の中に溢れかえるその名前に、ぼくは視線を外すことができない。
「またどっかの国に行ってるらしいよ」
「へぇ。忙しいな」
「海外研修ったって体のいい厄介払いだろ。アイツがいたらいちいちうるさくて忙しくなるだけだし」
 いなくて清々する、と一人の男が言って後の二人も大笑いする。
 眉を下げ、どこか切なそうな表情で真宵ちゃんがぼくを見た。親しい人間の悪口を聞くのは確かに悲しい。
 でも、同じ会話を聞いているぼくの中には悲しみではない感情が湧き上がっていた。それは自分の中にだけある、そして自分で抑えなきゃいけない感情だった。
 ──けれども。
「真宵ちゃん、先に座ってて」
「え!なるほどくん!?」
 驚いた様子の真宵ちゃんに答えることはせず、ぼくは真っ直ぐに彼らのもとへと歩み寄った。すぐ背後に立つと、そのうちの一人がこちらに気付き振り返った。
「成歩堂……弁護士」
 あっとした顔になり、それに気付いた二人も口を噤む。どうやらぼくの存在は彼らにも知られているらしい。御剣とプライベートで近い関係だということも。
 ぼくを無視して御剣の悪口に戻ることもできずに、困惑した彼らは矛先を巧みに変えてきた。
「さっきの法廷も流石でしたねえ。相手検事が気の毒なくらいでした。検事席に立っていたのが自分でなくてよかったですよ」
「いえ。そんなことないですよ。今日も大変でした」
 上辺だけのセリフにはとげが含まれている。この男たちにすれば、有罪を無罪にひっくり返す弁護士なんて厄介な存在でしかないだろう。
 嫌味ともつかない言葉に笑顔を作り嘘を返す。法廷では許されない嘘も、こういう時はうまくつかないと面倒なことになる。
 検事三人に対し、弁護士一人が全く怯まないことに苛立つのか。そして、ぼくの笑顔が御剣の話題に対する牽制になっていることにようやく気付いたのか。三人の目は明らかにこちらを睨み付けるものになっていた。
「何か御用ですか?」
 一人が痺れを切らし、ストレートに尋ねてくる。ぼくはこれ以上自分も相手も波立たせないように、笑みをより一層深くする。でも、貼り付けたような笑顔から、無理に曲線を描かせた唇から、落ちていく言葉は。
「……法廷ではあまり動かない口が、人の噂話となるとそんなに動くんですね。驚きました」
 しまった、と思っても言ってしまったことは訂正できない。笑いながらそう言ったぼくに向かって、一人が持っていた紙コップを投げようとした。しかし、それは振りだけで終わってしまった。
 ぼくを見ていた三人の顔が強張っている。怯えたような顔でぼくを……ぼくを?
「失礼」
 聞きなれた声。
 心臓がどきりと跳ね上がり、ぼくは振り返る。
「ゴミ箱はあちらだが?一体どこに捨てようとするのだろうか」
 そう言われた検事は顔を赤くし、紙コップを手のひらで握り潰した。こちらに背を向け、怒りを表した大きな足音を立ててその場を去っていく。その後を追い、次々と去っていく検事たち。残されたのはぼくと、自分の背後に立っていた男だけだった。
 コートを羽織り、アタッシュケースを手にしている御剣は溜息をついてぼくを見返した。
「何をやっているのだ。くだらない奴等にわざわざ喧嘩を売るなんて、君らしくもない。嫌味を言うのは憎まれ役の私だけでいい」
 呆れてこちらを見下す視線も、意地悪そうに微笑む唇も。それはどこからどう見ても御剣怜侍だった。
「ついさっき帰国し、裁判所に立ち寄ったのだが……まさか偶然、君たちに会うとはな」
 視線で示された方向を見ると、真宵ちゃんが一人で席に座り心配そうな顔でこちらを見つめている。
 先程のやり取りが御剣に見られていたと思うと恥ずかしくて堪らなくなった。噂の主の突然の登場と、子供のようにむきになって喧嘩を売ってしまった自分の浅はかさと後悔に何も言えないぼくを、御剣はフッと鼻で笑った。
 憎たらしいくらいに以前と変わりのない微笑みだった。

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