EIIOM

「あやまりなさい。龍一くん」
 そう言った相手を無言で睨み付けると、先生は大げさな溜息を吐く。そのまま背中を後ろに凭れさすと職員室の安い椅子までがキィと不満げな音を立てた。
「先生、ご両親に電話しておきます。学級裁判のこともお話するけど……いいわね?」
 がっきゅうさいばん、という言葉が胸をきゅっと締め付けた。無意識に怯えてしまう。小さく震えた瞳を隠そうとぼくはもう一度先生を睨み付けた。理由はもう一つあって、溢れ出そうになる涙を堪えるためでもあった。
「もういいわ。帰りなさい。喧嘩はしないように」
 先生がその言葉を最後まで言い終える内に、ぼくは背を向けて走り出していた。涙はもう我慢できなかった。泣きじゃくりながら、どうしようもない悔しさを抱えながら、ぼくは家までの道を走って帰った。



 どこかぼんやりとしたまま、ぼくは長い廊下を歩く。ここは裁判所だ。すれ違う人も多く、誰もが忙しそうに先を急いでいる。その中でぼく一人だけがゆったりとした歩調だった。
 ついさっき、抱えていた裁判の判決を得たからという安心感も手伝い、脱力しているのもあるかもしれない。でも、思い返してみればぼくは法廷へと向かっていた数時間前も、そんなに焦っていなかった気がする。法廷を命を懸けた場所と呼んだあの男が知ったら何と言うか。
 こちらを不機嫌そうな表情で睨み付ける親友兼恋人の顔が克明に思い出され、思わず吹き出しそうになった。右手で口を押えて何とか堪える。ちょうどすれ違おうとしたスーツ姿の女性が怪訝な顔で足を止める。ぼくは慌てて歩調を早めた。
 御剣は例のごとく、海外研修に行っている。もう数か月会っていないというのに、記憶の中の彼は鮮明だ。ぼくとは正反対の席──検事席に腕を組んで立ち、余裕の表情でこちらを見つめる。常に優位な笑み。相手を煽る仕草。法廷に響く低い声。
 御剣が海外研修に行っている間も、ぼくは仕事をこなす。何度も法廷に立つ。御剣のいない法廷に。
「………」
 何か、自分の奥からこみ上げるものを感じてぼくは足を止めた。
 御剣怜侍の不在。
 その状況に昔のことを思い出したからだ。



 使っていた人間が突然転校してしまったことで、一組の机と椅子は教室に残されたままだった。冬休みの前まではそこに御剣が座っていたのに。見れば、それを思い出して悲しくなるのに、わかっているのに。ぼくは御剣の席を見ずにはいられなかった。
 最後に別れた時は──あれが最後だなんて思ってもいなかったけれど──御剣は何も言っていなかった。一年の終わりを挟むという、いつもとは少し違う長い休みにわくわくしてヤハリと三人で帰った。ヤハリがお年玉でゲームをやりに行こうというと、御剣は貯金するからと言って断って……
 別れる日にあんなに話したというのに、冬休みが終わる頃には御剣に話したいことが日に日に増えていった。電話したけどなぜだか誰も出なかったのだ。家族でどこかに出かけていたのだろうか?
 いつもはめんどくさくて憂鬱な始業式が今回だけは待ちきれなくて、少しだけ早く学校へ行った。
 お年玉もらった?テレビなに見た?おもち食べた?年賀状どれくらい来た?
 聞きたいこと、話したいことで胸をいっぱいにして御剣を待った。でも、いくら待ってもその姿が教室に現れることはなかった。
「りゅういちくん、知ってる?」
 突然話しかけられ、ぼくは瞬きをした。クラスの女子が五人くらい集まってぼくを見ていたのだ。その中の一人が口を開く。
「れいじくん、どこに転校したんだろうね?」
 もちろん知るわけがないから無言で首を振った。このクラスでそれを一番知りたいのはたぶんぼくだ。
「あたし、お母さんから聞いたよ。なんか、お父さんが死んじゃったんだって」
 死という心が冷たくなるような単語が出てきて、みんな一瞬黙り込む。その発言をした子は自分で言って怖くなったのか、少し小さな声でこう続けた。
「冬休みに、地震があったでしょ?その日みたい」
 それを聞いた子たちが次々と口を開く。
「テレビで言ってた!」
「れいじくん、だから転校しちゃったのかなぁ?」
 騒がしくなったことで注目を集めたのか、周りにいた男子たちも寄ってきて話を聞きたがる。誰かが聞いてきた誰かに話して、それが繰り返されて、教室は一気にざわめきに包まれる。その中でぼくは、一人黙ってそれを見ていた。
 学校は広いけど、狭い。この教室の中がぼくたちのすべてだ。そこから、何の説明もなく突然消えた御剣が話題にならないわけがなかった。
 他人の口から飛び出す御剣の名前を聞くたびに、ぼくは怒りを覚えていた。みんなの噂話は止まらない。こんな時に限ってなかなか始業のチャイムはならなかった。
 黙っているぼくに気付いたのか、一人の男子がこちらを振り返った。
「御剣がいなくなって泣いてんのか?」
 それは大した悪意もなく、他愛もない冗談だったのだろう。でも、その時のぼくにはそれが理性を焼切るきっかけに思えた。気付いたら思い切り体当たりをしていて、相手と一緒に教室の床に転がっていた。

うらのindexへ戻る