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「電話がかかってきたら、最低限のことは聞いておいてね。
お客様が来たら、失礼のないように 対応して。
間違っても勝手に話、聞いちゃだめよ?
私が帰ってくるまであなたは何もしないでいいから。
掃除でもしておいてちょうだい。あ、でも勝手にいろいろ触らないでね」

一気に受けた命令をひとつひとつ理解しようと頭を働かせつつ、ぼくはジャケットを羽織った。
その真新しい青いスーツに輝くのは、真新しい金色のバッジ。
まるで犬みたいに後を追ってきたぼくをくるりと振り返り、千尋さんはにっこりと笑った。

「お留守番していてくれない?できる?」
「ぼくも行きま…」
「できるの?できないの?」

微笑んだ表情のまま聞かれて、ぼくは言いかけた言葉を急いで飲み込んで数回頷いて見せた。


・.


ぼくが司法修習を終え、就職先として選んだ先は綾里千尋弁護士の事務所だった。
とある事件でぼくが被告になってしまった時、全力で弁護してくれたのが彼女との出会いだ。
あの頃はまだ新人であやふやな弁護をしていた彼女だったけれど、今こうして個人事務所を
設立した千尋さんは、すっかり貫禄のある大人の女性になっていた。
穏やかな笑みと鋭い言動で行う弁護に加え、その華やかな容姿を合わせ持つ
彼女はとても有名で、研修所でも噂の的だった。
ぼくの憧れでもあり、そしてその部下として迎えられた自分自身が誇らしくもあった。
……あったのだけれども。

「所長!!……ぼ、ぼくも行きます!」
「なるほどくん。お留守番、できるわよね?」

必死の訴えはさらりとかわされてしまう。
こうして頼み込んで何とか就職させてもらったものの、この一週間、ぼくがした仕事といえば
留守番という名の雑用だけだった。
確かにぼくはまだ何もわからないし、ついていったとしても何もできないのだろうけど。

「なるほどくん?できるでしょう?」
「はい!留守番させていただきます!」

穏やかな笑顔に念押しされ、ぼくは慌てて答えた。
所長の綺麗な笑顔は不思議に人を黙らせてしまう効力がある。もう一度にっこりと
微笑むと千尋さんは黒い鞄を持って事務所の出口まで足を進めた。ぼくもその後を追う。
ドアノブに手を掛け、振り返った彼女をじっと見つめる。
その視線に気が付いた彼女は優しげな笑顔を返してきた。そして、微笑んだまま首を傾げる。

「どうしたの?」
「千尋さん。……ぼくのこと、馬鹿にしてません?」
「あら。そんなつもりはないけれど?」

不満げな顔でそう言っても、やっぱり笑顔で流されてしまう。
じゃあ、と短く告げて出て行こうとする所長の手を、ぼくは無意識に掴んでいた。
彼女が振り返る前に、一歩を踏み出して。
振り返った彼女の身体に、自分の身体を押し付けて。
ドアに彼女の身体を追い詰める。逃がさないように、自分の手を彼女の両脇に付く。
初めて触れてしまった所長の身体の柔らかさに驚きながらも、ぼくは低い声で彼女に問いかけた。

「………もう一度聞きます。ぼくのこと、馬鹿にしてません?」

ぼくを見上げた彼女の瞳は動揺の色を隠せずに、わずかに揺れていた。
内心ものすごくあせっていて逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけど、ぼくは顔を引き締めた まま
また一歩所長に迫った。所長の眉間に小さなシワが現れる。

「もう一度言うわ…そんなつもりはないけれど?」

ふいと視線をぼくからはずし、所長はぼくの質問に答えた。

「ぼくだって弁護士です!あなたの助手になりたいんです!」

感情的になったら負けだ、と自分でもわかっているのについ声が大きくなってしまう。
笑顔であしらわれるほどぼくだってもう子供じゃない。
御剣のため、千尋さんに並ぶために…ここまでやってきたんだから。

「なるほどくん」

黙ってぼくの言葉を聞いていた千尋さんが、ぼくを呼んだ。指が、ふと動くのが見えた。
驚いて見返すと、千尋さんが真っ直ぐにぼくを見つめていた。
いつも口元に浮かんでいた 柔らかな笑みを消して、ただ真っ直ぐに。
彼女の大きくて茶色い瞳にどきりとする。 そして、ぼくに向けられる手。
細く綺麗な指が鼻先にまで迫り、思わず目を閉じた。 花のような甘い香りが間近で揺れる。
───それは、憧れの彼女の匂い。

「……なるほどくん」

囁くような、艶かしい彼女の声が耳に届く。

「………?」

でも、指がいつまでもぼくに触れてこない。
おそるおそる目を開けてみると、彼女の手は胸元で止まっていた。

「そう言うんだったら、弁護士バッジくらいきちんと付けなさいね」

まるで母親のようにぼくを諭しながら、千尋さんは曲がっていた金色のバッジを直してくれた。
そして、瞬きしか返せないぼくを見つめにっこりと笑った。


・.


(完敗だ……)

一人残された事務所で、ぼくはがっくりと肩を落とす。
大人になれ、と言われたのはもう三年も前のことだ。あの頃に比べると、ぼくはかなり成長したと思う。
それでもこんな簡単にあしらわれてしまうだなんて。情けない。
俯きながらため息をついた視線の先には、胸に輝く弁護士の証。

(よし)

ため息じゃない、深い息を吐き出してぼくは顔を上げた。
───これからじゃないか。ぼくはここまで、来る事ができたんだ。
落ち込んでる暇があったら、今自分のできることをするべきだ。

(今、ぼくができることは…)

「掃除、か…」

なんだか情けないような気もしたけど、ぼくは千尋さんに言われたとおりに掃除をすることにした。
事務所の(と言ってもぼくしか使ってないから、ぼく専用と言っても過言ではない)ホウキを手に
ウロウロと歩き始めた。無心に掃除をし、ぼくは所長室へとやってきた。
そこには千尋さんの恩師である、星影先生から譲り受けた大きなデスクが置いてある。
手を伸ばしかけて、しばらく考える。
いつも千尋さんの机の上は綺麗に片付いていて、ぼくが掃除するまでもないんだけど…

(………まぁ、ついでだしな)

大して汚くもないのだけれど、ぼくは持ってきた雑巾で机の上を拭き始めた。
しばらくして、置いてあった書類の下の方から何かがのぞいている事に気がついた。
何気なく手に取る。

それは、古びた写真。

割れた花瓶のようなものを真ん中にはさんで、小さな女の子が二人写っていた。
一人はホウキを握り締めたまま座り込んで、大泣きしている。
もう一人は割れた花瓶のかけらを持ち、視線をこちらの方に向けて驚いたような表情のまま固まっている。

(千尋さんだ)

面影が少しだけ残っている。嬉しくなったぼくは、口元を緩めてその写真を観察し始めた。
着物のような、妙な服を着ている…隣で泣いているのは、前に聞いた妹さんなんだろうか。
廊下のような場所で日の光をバックに写された写真は、幸せそうな家族の風景の一場面を
閉じ込めたもののようで。見ているだけで自然に笑みがこぼれた。
きっと撮ったのは、お父さんかお母さんなんだろう。

───
その時、もう一枚写真が重なっていることに気がついた。

カメラを見つめ、笑顔で寄り添う男と女。
千尋さんが今より若い…きっとぼくとはじめて出会った頃のものだろう。
懐かしさが込み上げる。そして、隣に立つ男の人に視線を移動させたとき。

「なーるーほどくん?何サボっているの」
「ぎゃあ!!」

いきなり背後から声を掛けられて、ぼくは飛び上がった。
慌てて振り返ると、眉を寄せてぼくを睨みつける所長の姿。いつの間に帰ってきたんだろう?
自分の姿を見て悲鳴を上げられては、所長だって気を悪くするだろう。
何か言い訳をしようと口を開いたはいいものの、言葉が出てこない。
完全に混乱したぼくを無視して、千尋さんは手に持っていた写真に目をやった。

「何持ってるの?」

ぼくが答える前に千尋さんは手を伸ばし、二枚の写真をぼくの手から奪った。
それを見た途端、微かに彼女の眉が歪む。

「感心できないわね、なるほどくん。他人のプライベートを覗くだなんて」
「の、のぞく…?」

言い訳もできないままぼくは、弁解の意味を込めて何度も首を振る。
そんなぼくの様子を千尋さんは冷めた目で見る。

「あなたを雇うの、やめようかしら…」
「いやいやいや!頑張りますから、ぼく!何でもしますから!」

腕を組みまるで他人事のように呟く千尋さんに、ぼくはあせって首を振る。
そうねぇ、と気の入らない答えが返ってきて、ぼくは思わず泣きそうになってしまった。
そんなぼくの様子を見て千尋さんは楽しげに笑った。そして、その次の瞬間。
彼女の表情が一瞬で消えた。

「なるほどくん。ひとつだけ、約束してくれないかしら」

その様子に驚いてぼくが問い掛ける前に、千尋さんが先に口を開く。

「私より先に死なないで」

唐突な命令に、ぼくの反応は少しばかり遅れた。
瞬きを繰り返しているぼくを、千尋さんはにこりともしないで見つめる。

「私の目の前から、急にいなくならないで」
「千尋さん…?」
「それがあなたを雇う条件よ」

守れる?と言って千尋さんはぼくを見つめた。その瞳はまるで、ぼくにすがっているように見えて
驚いたぼくはすぐに答えることができなかった。
冗談めかした言葉で返そうとして、やめた。ぼくも口を引き締め、彼女を見つめ返す。
真っ直ぐな目に、真っ直ぐに視線を合わせて。
自分の決意が、彼女に伝わるように思いを込めて。

「……はい。約束します」

まるで結婚式の誓いの言葉のように、ぼくは真剣に頷いた。
ぼくの返事に千尋さんはにっこりと微笑んだ。
そう、まるで花が咲いたように。 とてもとても綺麗な笑顔で。

「成歩堂龍一君。これから、よろしくね」
「はい!お願いします、所長!」

そして千尋さんは、綺麗な手をぼくに差し出してきた。
青いスーツで手のひらをごしごし拭いて、緊張しつつもぼくも手を伸ばす。
そうしてぼくたちは、お互いの手を強く握り締めた。

───その手はとても温かく、心強く、優しくて。

ぼくを引っ張っていってくれた手は、いつしか背中を押すものに変わり。
そして今はもう、触れることすらできなくなってしまった。

それでもぼくは、今でも忘れられないでいる。
あの日、あの時の千尋さんの笑顔、言葉、温かい手。
……最後の夜に触れた、体温が徐々に失われていく感覚も忘れることはできないけれど。


きっと一生、忘れないんだと思う。

あの時の幸福感、優しい手の温度を。

 








   

   
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