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「……御剣?」

グラスに飲み物を入れて戻ると、彼は深い瞳をして考え込んでいた。
呼びかけにも全く気付いていないようだ。
ぼくはため息をついてグラスを彼の前に置き、自分も近くの床に腰を降ろした。

「呼んだか?」
「ううん……そこに置いといたよ」
「ああ、すまない」

しばらくしてぼくに気がついた御剣に首を振り、答える。グラスを手にした御剣は、また口を閉ざした。
もう慣れた事だ。ぼくはリモコンに手を伸ばし、適当にチャンネルを変えた。

DL6号事件解決から2週間───
ぼくは少しでも時間が空くと、彼のマンションへと訪ねるようになった。
悪夢にうなされ続けた15年間。そして、彼の師匠とも言える人物が真犯人と判明したあの日。
終わりのないと思われた悪夢の幕引きは、同時に新しい悪夢の幕開けとなった。
真実は時に残酷なものだ。そしてその真実に翻弄されることしか出来ない人間は、 ただ苦悩するほかない。

そんな彼を少しでも楽にしてあげたい……救ってあげたい。
何をするわけでもないけれど、こうして同じ時間をすごすことが、御剣を少しでも楽にしてあげれたら。

そんな想いを抱えて、ぼくは今日も彼と一緒にいた。

「成歩堂。こんなところにいて、仕事はいいのか?」
「うん。とりあえず今は大きな依頼も入ってないしね」

これは嘘だ。 あの裁判の後、ぼくの名前は一気に知れ渡った。
依頼も大きいものから小さいものまで、 ひっきりなしにやってくる。
でもそれはぼくの弁護の力を認められているわけじゃない。 ただの興味本位で注目されているだけだろう。
あの、狩魔検事を初めて破った弁護士───そんな肩書きなら、ぼくはいらない。

「君は最近どうなの?」
「……変わりない」

ふぅん、と呟きつつ彼を見つめた。

『やっぱりおかしいッス、御剣検事は』

今日、警察署の廊下であった糸鋸刑事の言葉を思い出した。

『審議の途中で急に考え込んだり、検察側に不利な証拠品を提出したり…』

今日、彼が担当した裁判は有罪だったと聞いた。しかしそれはあくまでも結果的には、だ。
結果は以前と同じでも、その結果にたどり着くまでの過程は違いすぎていた。

(……余計な感情、か)

再会するべきではなかった。そう彼に言われたのは、少し前のことだ。
ぼくと再会することで生まれた、迷いや不安。
以前の冷徹な鬼検事は消え、そこに残ったのは───

パリン、と鋭い音が部屋に響いた。

「…!…御剣っ!!」

顔を上げると、右手を濡らして呆然とする御剣の姿。
その手のひらから赤いものが流れ落ち、ぼくは息を呑んだ。

「何やってんだよ!」

ガラスの破片をぼんやりと見つめている御剣の肩を抱き、急いで流しへと連れ込む。
鼻をかすめる血の匂い。御剣は何も言わずに、ただ水とともに流れる自分の血液を見ていた。

「…………」
「御剣?大丈夫か?」

一人暮らしの家に救急箱なんて置いてないのが普通だろう。ぼくは仕方なくタオルで御剣の右手をきつく縛った。
破片を踏まないよう気をつけて彼をソファまで連れて行き、自分は腰を屈めて破片と濡れた床を片付け始めた。

「ほんとにもう…ボーっとするのにも程があるぞ」

ついつい口調が荒くなってしまう。
割れ物の片付けに不満があると言うことではない。ただ、苦悩によってもたらされる不注意からで彼自身の身体を傷つけることに腹が立った。
そんなの御剣らしくない、しっかりしてほしい。
でも、 そう思っても口に出さない。それは彼自身が一番に望んでいることなのだろうから。

「…………私もまだ、人間だったのだな」
「は?」
「怪我をすれば血も流れるし、痛みを感じる」
「あたりまえだろ?」

ふいに響いた呟きに間抜けな声が出た。これまたセンスのない冗談だ。やれやれ、と気付かれないように溜息を吐き出し細かい破片の残る床を雑巾で拭う。

「有罪判決を獲得するためにはなんでもする血も涙もない鬼のような検事……そう言われていた私でもな」
「御剣?」

ぼくは手を止めて彼を見た。皮肉めいた笑みを浮かべ、彼は呟く。

「迷いや不安…情…全ての物は検事に必要ない。私はそう習った」

狩魔豪検事に───御剣はその名を口にしなかった。

「しかし、どうだ。今の私は」

傷付いた手で自分の身を抱く。乾いた口調とは裏腹に、その表情は苦悶に歪んでいた。

「無様なものだ。ありとあらゆる感情に踊らされ、すべてを見失い……」

ぼくは何も言えない。言えずに彼を見つめる。

「完璧な勝利を納める事のできない検事なんて、法廷に必要ない」
「み…」
「君に負けた私は、もう必要ないのだよ!」

辛うじて発した声は、御剣に一喝されてかき消されてしまった。
近くにあったテーブルに、怪我した右手を叩きつけた。

「被告の有罪を立証できなかった検事など、存在する意味がない!」
「やめろ、御剣!」

止めようと彼の手を握ると、渾身の力で振り払われる。そしてぼくを振り返った。
ぼくは目を見開いた。

「君が……!!」

瞳に浮かんでいるのはまぎれもない憎しみの感情。負の感情で満ちた視線をぼくに投げつける。

「……成歩堂、君が私に触れたからだ!」

真正面から憎悪の念をぶつけられ、ぼくは動けなかった。混乱する頭で彼の非難を受け止める。

───
15年前から固く閉じていた、彼の心を開いたのはこのぼくだ。
無理に開いて、そこにあったのは何だった?
光を知らないまま生きていくことを、彼は望んでいたのか?

「私は今まで、こうして生きてきた! 君からの手紙に答えなかったのも、かかわって欲しくなかったからだ!」
「御剣……」

何も言えない。言葉の代わりに、ぼくは彼の名前を呼んだ。

「……私はあの生活に、何も不満はなかったのだ。救ってほしいなんて、私は言っていない!」

眉を中央に集め、御剣は視線をぼくから外した。 そして、苦しげにそう言い切った。
静かな口調で、 決定的な言葉をぼくに告げた。

「君が私の目の前に再び現れなければ……」

それは嘘でもない、まぎれもなく彼の口から出た真実だ。

───ぼくに、この真実を逆転することができるのだろうか?

 

 

 

   
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