正反対の方向から近づいてくる人影にぼくは足を止めた。
ひらひらを胸元を飾りつけるフリル。いかにも高そうなロングコート。向こうもぼくに気がついたらしい。
二人の間の距離が縮まるにつれ、その表情が明らかになってくる。
まぁ……想像しなくても奴がどんな顔してるかわかるんだけど。
男は立ち止まり、ぼくもまた足を止める。とあるビルの前に二人、向き合ってお互いの顔を確認する。
しばらくして男は口角を吊り上げる。そして、不機嫌そうな顔を一変させて優雅に微笑んだ。
整った顔が優しげに緩む。……それをなぜか嫌味と感じるのは、ぼくの気のせいなんだろうか。
「これはこれは。……奇遇だな、成歩堂弁護士」
「相変わらずのようだね、御剣検事」
くそ、負けてるな、と心の中で悪態をつきつつもぼくは、精一杯の笑顔を作り御剣の挨拶に答えた。
■
御剣───と言うよりも、相手の検事とこんなところで会うのは計算外だった。
でもそれは相手も同じだったようだ。完璧な笑顔を見せたのは最初に挨拶をした一瞬だけのことで、
今の御剣は見るもの全てを怯えさせるような瞳でエレベーターの扉を睨み付けていた。
考えてみれば、明後日の裁判で証拠品がないのは検察側も同じ。
唯一の目撃者に目をつけるのは弁護側も検察側も一緒だ。その機会をお互いに譲るわけがない。
結局、ぼくと御剣はこのビルの五階にいる目撃者を共に訪れることになってしまったのだった。
何だかいらつく気分で壁のボタンを押すと、重苦しいエレベーターの扉がさっと開いた。
ぼくは後ろの男を振り返ることなくその中に身を入れる。階数ボタンを押そうと、身体を反転させたその時。
御剣の後姿が見えた。コートの背中はエレベーターとは反対の方向に向かおうとしている。
「え。乗らないの?」
慌ててボタンを押し、閉まりかけた扉の動きを止める。そして、その背中に声をかけると
御剣はゆっくりとぼくを振り返った。再びぱっくりと開いた扉の中央に立ち、腕を組んでぼくを鋭く睨みつけきた。
「さっさと行きたまえ、弁護士」
「え、え、でも行き先は五階だろ?エレベーター使わないのか?」
「日々の体力づくりのために階段を使用しているだけだ。ひ弱な君と一緒にしないでくれ」
顎を綺麗に持ち上げ、完璧な笑顔を作り出して御剣はそう言った。
ここで言う完璧というのは、完全に整ったという意味ではない。
いつも法廷の検事席で見る、相手を嘲笑する性悪検事のものだ。
ああそうですか、と声を出して答える気にもならず、ぼくはげんなりした顔で人差し指を下ろした。
ボタンから指が離れたことで両側の扉は再び中央に寄っていき、蔑むような視線をぼくに投げつける御剣の
姿をあっという間に隠してしまった。
■
(……やっぱり乗れない、か)
長方形に形作られた狭い空間の中、ぼくは一人嘆息する。
───地震によって故障したエレベーターに数時間閉じ込められ、その中で父親を失った。
言葉にするのは簡単だ。でもそれを実際に経験し、何年間もの間悪夢にうなされ続けていた御剣。
奴の抱える苦悩とトラウマは決して融解することなく、時が流れた今でも御剣はエレベーターに乗れない。
思ったよりも御剣の傷は深いらしい。地震も未だに苦手で、以前それによって被告人を逃がして
しまったことさえある。 その時の御剣の様子を思い出し、ぼくはまた深いため息をついた。
奴が過去と、それに関連するものに怯えて青ざめるたびに、胸がひどく痛む。
いつまでも過去に執着する御剣を救いたいと思う。
強くあってほしいと、ぼくの理想でいてほしいと、ひらすらに願う。
逃げるのをやめて、真正面から向かい合ってほしい、と。
(……こんなこと言ったら、怒られるだろうなぁ)
ぼくは先ほどの御剣の表情を思い出して、ふっと笑う。
プライドの高いあの男のことだ。ぼくがこんなことを考えていると知ったら激昂するに違いない。
過剰な気遣いと心配は、同情と哀れみによく似ている。
ぼくはそれを間違えてより深く御剣を傷つけてしまうかもしれない。
自分ができることはもう全部したつもりだ。これ以上のことはぼくが口を出すべきことじゃない。
トラウマなんてものは本人だけの問題であって、他人が治そうとしてもそれはただのおせっかいになるだけだ。
それは自分でもよくわかっていたし、御剣もそう思っているのだろう。
───それに。
どうしても消せない痛みと恐怖はぼくもよく知っている。
情けないことにぼくも、誰もいない暗い事務所に足を踏み入れる時は未だに躊躇してしまう。
いつもはあんなに笑って明るい真宵ちゃんだって絶対、ぼくより先に事務所の中に入ろうとしない。
大切な人と過ごした思い出は、日々薄れて減っていくばかりなのに。
重苦しい記憶はずっと心の奥底に横たわっている。
それは消えることなく、いつでもずっと心にこびりついていて。
落とそうとしても絶対落ちない。しつこく残り、ぼくたちをずっとずっと脅かす。
(あーやだやだ)
ぼくは目を閉じて首を振る。
三年前からずっと引き摺っている後悔と悲しみを頭の中から追い出すように。
エレベーターに乗り込む前に見た、重い記憶に腐食される恋人の悲しい姿を忘れ去るために。
■
ポン、と軽やかな音を立てて箱は扉を閉ざした。
薄暗い階に足を踏み入れ、ぼくは辺りを見回す。どうやら御剣はまだらしい。
当たり前だ。エレベーターと階段で勝負したら、どっちが勝つかなんて考えなくてもわかる。
壁に背中をつけ、もう一度目を通しておこうと鞄の中から資料を取り出した。
視線を落として読み耽ること数分間。しばらくして近づいてくる足音。
やっとで到着した奴を笑顔で迎えると、その男は鋭い瞳で先に到着していたぼくを睨み付けてきた。
「遅いよ」
「き、貴様が早すぎるのだ」
(当たり前だよ……)
ツッコミは心の中にしまっておいて、ぼくは隣に並んだ御剣を見つめる。
自分一人だけが息を切らせているのが悔しいらしく、涼しい顔を必死に作り呼吸を整える姿がおかしくて、
思わず噴出しそうになってしまった。じろりと睨まれたぼくは誤魔化すように咳払いをし、御剣に問いかける。
「さて。どういう肩書きで行く?」
「うム……弁護士と検事でいいだろう」
御剣はぼくから外した視線を奥の扉に向け、そう答える。そのまんまじゃないか、とぼくは呟いて苦笑した。
でも特に異議を唱えるつもりもなかった。最初からぼくもそのつもりだったのだから。
今から会おうとしている目撃者は、なぜか頑なに取調べを拒否していた。
それを拒否することが逆に自分の身を追い詰めていっていることに気づいているのか、いないのか。
何か重要な事実を知っているのは確かだろう。それだけは何も聞かなくとも確信できる。
雑居ビルの5階の片隅に目的の部屋はあった。人気のない廊下を御剣と並んで歩く。
扉の前に到着したぼくは御剣を振り返る。御剣は無表情だったけど小さく頷きを返してくれた。
ぼくもまたそれに頷いて答えると、横にあるインターホンに人差し指を触れさせた。
ピンポ−ン、とくぐもった音が部屋の内部から聞こえる。
数秒後の沈黙の後。扉が数センチだけ開いた。
「すみません」
隙間からのぞく顔に声をかけると、その男は険しい表情でぼくを見返した。
再び閉じようとした扉の間に自分の身体を挟ませ、咄嗟に阻む。ぼくのその行動に男の表情が歪んだ。
ぼくはそれに怯むことなく、身体をさらに入り込ませる。扉がそれ以上閉じないように。
「弁護士の成歩堂龍一と申します。少しお伺いしたいことが」
穏やかな笑顔を作りつつ、ぼくは視線を少し落とし胸ポケットを探る。
白い小さな名刺を手に、再度男に向き合おうと顔を上げた瞬間。
「!」
あ、と思ったときにはもう遅かった。
足がもつれてバランスが崩れる。
その間にも男の身体が動いてるのがわかった。こちらに向かってくる。
勢いよく開いた扉から飛び出してきた男の腕に押され、ぼくの身体は後方に傾いた。
床に倒れこみそうになる身体を支えるため、右手が何かを掴もうと無意識に持ち上がる。
けれどもそれに答えてきたのは、あまりにも大きすぎる衝撃。
ガン!と鈍い音が廊下に響き渡った。その後に聞こえるのはバタバタと滅茶苦茶に響く足音。
それから一瞬、全ての音が途切れる。
自分の身体が床に当たった衝撃で耳に音が届かなかったのだと、後に気づく。
「……成歩堂ッ!!」
青いスーツの肩を誰かの腕が掴む。声からして御剣なんだろう。
その声に大丈夫だ、と答えたいのに唇が動かない。かわりにうめく様な声が出て、ぼくはゆっくりと目を開ける。
右の額が生暖かい。気づけば右の目がうまく開かない。何かが目の中に入り、すごく沁みる。
「成歩堂、大丈夫か!?」
「み、つるぎ……」
わんわんとわけのわからない音が頭の中で響いている。
いきなり何かで頭を殴られたらしい。油断した。割れるような痛さに声がうまく出ない。痛い。
───千尋さんもこんな痛みを感じたのだろうか。
そう考えた後、背筋がぞっとした。死人を引き合いに出してる場合じゃない。
「御剣…っ!あいつは…!?」
片目だけでも必死に開き、ぼくの身体を支え顔を覗き込む御剣の胸元を乱暴に掴んだ。
そして吐き出すように叫ぶ。ぼくの問いかけに我に返ったのか、御剣ははっと息を呑み後ろを振り返る。
男の姿はもうこの階にはなかった。カンカンとけたたましい足音が次第に遠ざかっていくのがわかった。
「階段で…っ!」
「私が追う。君は……」
御剣は瞬時に表情を変え、冷静な声でぼくに命令した。
ぼくの身体を壁に持たれかけさせると、コートを翻して立ち上がる。
でも、その次の瞬間。
「御剣……」
痛みと流れた血で輪郭全てがぼやけて見えるのに、御剣の表情は怖いくらいによく見えた。
御剣はまっすぐに見ていた。
───あの忌まわしい事件が起こった場所を。彼の心を腐食する、エレベーターの扉を。
階段で降りた犯人の後を、階段で追いかけても追いつくはずがない。追いつくには、あれを。
あの場所に行かなければ。
御剣の身体は人形のように固まり、ぴくりとも動かない。ただ無言でエレベーターを見ていた。
耳には、走り続ける男の足音が届いてきている。
でもそれはだんだんと小さくなり、次第に消えかけていってしまう。
焦りが、ぼくのぼんやりとしていた意識を覚醒させていった。痛みを無視してぼくは右の手のひらを床についた。
そして思い切り叫ぶ。
「御剣!」
呼んだ後、ぼくはすぐにそれを後悔した。
自分の声に、彼を非難するような響きがあったことに気がついたからだ。
ぼくの呼び掛けに突っ立ったままの奴の身体が大きく揺れた。でもその目はぼくに向けられることはなかった。
ずっと、エレベーターの扉に固定されたまま。
再度名前を呼ぼうとしてやめる。その代わりにぼくは痛みで痺れる腕を床について力を込めた。
「……ッ!」
身体が、重心が、動くたびに骨が痛みに軋む。
息が漏れたのも構わずにぼくはさらに力を込め、自分の身体を持ち上げようとした。
「成歩堂」
「!」
突然、感情のない声に名を呼ばれぼくは俯かせていた顔を上げる。
そのぼくの目に映ったのは御剣の白い手。 長い指を内側に折り込み、拳を形作る手。
人よりも色素の薄い奴の肌がいつも以上に白くなっていた。
その尋常でない様子に思わず息を呑む。顔をさらに持ち上げ、御剣の表情を伺う。
見慣れた横顔はいつもの通りで、何の表情も作ってはいなかった。でもそれが逆に不安を感じる。
右の手は相変わらず強く握り締められたままで。その拳がかすかに震えていることに気がついた。
あの事件の記憶が彼の手足の動きを奪っているのだろう。
ぼくは顔をしかめて、痛みも忘れて立ち上がろうとした。
「……御剣!君は無理だ、ぼくが」
「成歩堂」
硬い声で御剣はぼくの言葉を遮った。結局、立てなかったぼくの前を通り過ぎてエレベーターの前まで進む。
白い拳を持ち上げて御剣は壁のボタンを押す。音もなく開くエレベーターの扉。
御剣は立ち止まることなくその中に足を踏み入れた。見ていたぼくの方が驚くくらいに、何の躊躇もなく。
そして振り返る。
「───成歩堂。私を信じて待っていろ」
扉が閉まる瞬間。
御剣の言葉と、ふっと微笑んだ表情がぼくに届いた。
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