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この世にヒーローなんていない。
正しいものが必ず勝つなんて、現実世界では考えられないことだ。


・.


木槌が振り下ろされると同時に、被告人は大声を上げた。
わけのわからない言葉を叫びながら暴れる被告を係員が捕まえる。
私は表情を全く変えずにその法廷から去ろうとした。

「俺は何もしていない!…その検事が全部仕組んだことじゃないか!」

無礼な声に私は足を止めた。振り返ると被告人が血走った目で私を睨みつけている。
目が合うとその男は、掴みかかるような勢いで私に向かって両手を振り回す。
けれどもその動きは数人の係官に押さえ込まれ、私に届く前に全て阻まれた。
そこで私ははじめて自分の表情を崩した。口元を緩め、右手を胸の前に運ぶ。
そしてそのままゆっくりと頭を下げた。

「ふざけるな…!」

私のその仕草に激昂した被告人が再度暴れ始めた。
私は浮かべた皮肉な笑みを瞬時に消すと、その法廷を後にした。

・.

「お疲れさまッス」

裁判所の外に出ると一人の刑事が私の到着を待ち構えていた。
私の目の前で糸鋸刑事はその大きな身体を揺らして敬礼をした。そして車のドアを慌てて開く。
一瞥だけすると、無言で自分の身体を車の中に滑り込ませた。

「警察署に向かってくれ」
「ハッ!」

少し遅れて運転席に乗り込んだ糸鋸刑事に短くそう告げると、私は視線を外に向ける。
刑事は背筋を伸ばしアクセルを踏み込んだ。

検事として法廷に立ち始めてからすでに四年が経過していた。
初めて担当した事件では勝訴を逃したものの、それから私は検事席に立つ度に有罪を立証してきた。
完璧な証拠。完璧な証人。そして、完璧な勝利。
それら全てを揃えるのには、多少無理な方法を使わねばならない。
勝訴を重ねるにつれ、私の呼び名は変化していった。
天才検事から鬼検事へ。そして、有罪のためなら何でもする男と。
その噂が広まった後でも私は、構わず有罪を勝ち取り続けた。
下された判決が真実かどうかなど、私には関係ない。私自身が完璧である。
それを証明できればいい。

流れる景色な中に派手な色を見つけ、私は目を細めた。

「糸鋸刑事」

私の抑えた口調に彼の身体が強張る。

「何なのだ?あのシュールなビジュアルは」

信号待ちの間に目に飛び込んできたあるものを指差し、私は尋ねた。
運転席から身体を少し傾け、それを確認した糸鋸刑事が大きな声でこう答えた。

「ヤングに絶大な人気を誇る、大江戸戦士・トノサマンッス!」
「くだらないな」

一蹴された糸鋸刑事はぐっと口を閉じた。
玩具屋の店先に並ぶ奇妙な人形。それを囲み子供たちが賑やかに笑いあっていた。
小学校4年生くらいだろうか。邪気のない瞳でヒーローを見つめる。
あの頃の子供は憧れの対象を作るのが得意だ。自分より背丈の高い英雄をまるで神のように崇める。
完全無欠のヒーローを作り出し、理想の存在として自分の胸に住まわせるのだ。

「……くだらない」

私はもう一度そう呟くと目を伏せた。自分の視界にあどけない表情の少年たちが映らないように。
そしてまた車内に流れる重い空気。

───馬鹿らしい。
くだらない。馬鹿馬鹿しい。

子供が作り物のヒーローに夢中になれるのは、まだ現実を知らずに生きているからなのだ。
この世にヒーローなんていない。私はその事を9歳のときに知った。
そして今。自分がこの地位に立っていること自体がその事実を何よりも証明しているだろう。
どんなに悪行を繰り返しても私自身は罪に裁かれることなく、逆に人々を裁く。

ミラー越しに、糸鋸刑事が私の様子を窺った。
そして無言でいる私の表情に気がつくとわずかに目を瞠る。私は口元を緩め、窓の外を見つめていた。
笑いが止まらなかった。

正義の味方、トノサマン?……そんなもの、ただの作り物でしかない。
この世に正しいものなど、ひとつもないのに。


・.


検察庁の自分のデスクに置いてあった書類に目を通していた私は、あるひとつの事件に眉をひそめた。
それは何てことのない殺人事件の概要。若い女性が殺され、その恋人だった男が逮捕された。
しかし私が目を止めたのは、被告人の名前でも被害者の名前でもなかった。
……審議の結果、逆転無罪。
書類の文字は無機質にその事実を物語っていた。

(逆転無罪だと…?)

数年前から設置された序審法廷では、短い期間で行われるために調査が不十分に終わり、
有罪判決で幕を閉じることが多かった。有罪の文字が並ぶ中、その裁判の結末は珍しいものだった。
眉を寄せたまま視線を下に落とし、書類を読み進める。
担当弁護士の行まで来た瞬間。思わぬ名前を見つけ私は息を飲んだ。

弁護人 成歩堂龍一

被告の名前をもう一度見返し、目を見開く。
先程は無罪判決に気をとられ見逃していたが、その名も私が昔からよく知っていたもので。

「………どういうことだ」

私は低い声でそう問い掛けた。紙に並ぶ、二人の同級生に向かって。
思い出したくもない少年時代が一気に甦ってくる。
しかしその記憶の中に二人の姿は出てこない。

9歳の頃の、と言っても思い出されるのはあの狭い暗い箱の中の出来事だけ。

吐き気と眩暈に突如襲われ、私は額に手のひらをあてがった。目をきつく瞑り深い息を吐き出す。
そして手にしていた紙を思い切り握り締めると、足元にあるゴミ箱へとそれを叩きつけた。









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