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いつもより熱を持った指が私に触れすぐに離れた。
手のひらに小さな重みを残して。

私は湧き上がる疑問を全て胸の底に押し込め、弁護席につく。
いつもとは正反対に展開する視界に目を細めた。そして、被告席に俯き佇む女性を見据える。
これから何が起きようとも、どんな事実が明らかになろうとも。私は被告を信じ、守る。
それが私のかけがえのない友人である成歩堂の願いなのだから。
───真実が明らかになることによって、彼が私から遠く離れようとも。

「これより葉桜院あやめの裁判を開廷いたします」

カン、と木槌の乾いた音が法廷に響き渡った。









口の中が気持ち悪くて私は眉をしかめた。
閉じていた両眼をゆっくりと開く。色の薄い光がぼんやりと部屋を包んでいた。
下ろしてあるブラインドの隙間から漏れる光に部屋の中のものが次々と照らされる。
観葉植物、いつかの古い映画のポスター、大量の本がきっちりと並べられた本棚。
それは見慣れた光景だった。
今自分が身を置いているのも、よく座っていたあの大きなソファなのだろう。
気だるい身体をわずかに動かしてデスクのある方向に目を細める。
次の瞬間、私は驚きで目を見開いた。
所長が座るべきその椅子に見慣れない男がゆったりと腰を掛けていたからだ。
私の視線に気がつき男はニヤリと笑う。

「お目覚めかい?……ボウヤ」

白く後方に流れる髪。片手に持つのはコーヒーカップ。
何よりも目立つのは、顔半分を覆う赤い線の入ったゴーグル。
男は手に持ったカップを口元に運び、ゴクリと一口飲み込む。
そして見つ続ける私に向かって笑いかけた。

「コーヒーがなぜ褐色なのか知っているか?」
「ゴドー検事……」

先日、糸鋸刑事から聞いた名前を口にする。
聞き慣れない名前の、正体不明の検事。体調不良で入院していた成歩堂と、審議に現れない
検事の代わりに私と冥が法廷に立ったのは数時間前のことだ。
拭い去れない不信感と神聖な法廷を汚した人物に鋭い視線を向けていると、男は再度口を開いた。

「カップの底に眠っている物を隠すために黒いのさ……隠し場所には最適だぜ?」

どういうことだ、と問い掛けようとしてやっと気づく。
この、何とも言えない疲労感と緩やかな頭痛の原因を。
先程、事務所を訪れた際に成歩堂から差し出されたコーヒー。
あの中に何か入っていたのだろうか?

「成歩堂が……まさか」

はっきりとしない思考が行き着いた先の真実に愕然とする。
思わず心の声が口をついて零れ落ちてしまった。
それに目ざとく気づいたゴドー検事が喉を鳴らして笑った。

「クッ……残念ながらそれは間違い、だぜ」

何も持っていない方の手でゴドー検事は私の左後方を指し示す。
振り向き、その方向を確認し……さらに愕然とする。

「成歩堂!」
「あまり大きな声出すとまるほどうの目が覚めるぜ」

所長室の扉の前に座り込み背中を預け、顔を俯かせている男……それは高熱を出し、
昨日まで入院していた成歩堂だった。表情は見えないが、きっとひどい顔色なのだろう。
ぐったりとした様子に鼓動が早まる。ふら付く身体を奮い立たせ、足早に彼の元へと向かう。
腰を下ろし床に膝を付き、成歩堂の肩を支えて顔を覗き込ませた。
しかし驚くことに成歩堂の顔色はさほど悪くなかった。

「ゴドーブレンドをお見舞いしてやったからな。熱なら多少は下がってるはずだ」

安堵していると後方からゴドー検事の声が響いた。彼の意図がさっぱりわからない。
私はゴドー検事の言葉を無視し、成歩堂の身体を支え自分に持たれかけさせた。
成歩堂は身体が勝手に動かされることにわずかに眉をしかめただけで、目を開くことはなかった。
ソファへと戻り彼をその上に横たわらせた。
目を閉じた成歩堂を数秒間見つめた後、顔を上げデスクにつくゴドー検事を睨みつける。

「何を考えているのだ、貴様は」
「クッ……ボウヤも偉くなったもんだな」

そのどこか人を馬鹿にする喋り方は以前どこかで聞いたことがある。
しかし、いくら思い返しても私の記憶の中にこの白髪の検事は存在しなかった。
再度、頭の中の人物ファイルを捲ろうと古い記憶を呼び戻そうとした、その時。
ゴドー検事が口を開いた。

「アンタは二十歳で検事になってからずっと無敗らしいな。そこの弁護士に敗れるまでは」

どうしてその事を、と一瞬不思議に思ったがその事実は特に隠しているようなものでもない。
人というものは噂話が一様に好きなものである。
検察局で私の話を彼が耳にしても、何の不思議もない。
ゴドー検事は顔から表情をなくすと、静かに告げた。

「けれども一度だけ、いつもと異なる終わりを迎えたものがある。……被告が命を絶った裁判だ」
「………」

言葉を返さなかったのは屈辱を感じたからではない。
今回、葉桜院で起きた事件……その容疑者・あやめに関する記憶。
糸が繋がるように引き出されるのは、初めて法廷に立った時の苦い思い出。
あの時の証言台で穏やかに微笑む女性。彼女のその面影は今回の被告とぴったりと重なる。

「……それが何だと言うのだ」

苦々しい思いで言葉を吐き出す。あの時のやるせなさは今でも覚えている。
それをこの得体の知れない男に口にされるのは本当に不愉快だった。
顔を逸らした私に向かってゴドー検事はカップを持ち上げる。

「アンタのその過剰すぎる自意識が二人の人間を傷つけたのさ」
「二人、だと?」

私はゴドー検事の言葉に眉をしかめる。
あの時亡くなったのは被告人だけだ。
確かに私の狩魔検事に習った強引なやり方に追い詰められ、
逃げ場をなくした被告は自ら死を選んだのかもしれない。
けれどもそれをこの男に咎められる筋合いはない。それに二人の人間を傷つけた記憶もない。

「アンタは償うべきだ。あの時他人に与えた大きな傷を今、ここでな」
「な……」

ゴーグルの向こうで男は不気味に微笑む。
こみ上げる怒りを辛うじて抑え、低い声で彼に告げた。

「貴様は何を言っている?何の目的でこんな事をするのだ?」
「オレが憎むのは……」

そこまで言ってゴドー検事は口をつぐむ。
手にしたカップをデスクに置き、何かを考え込むようにして黙った。
何か言おうと息を吸い込んだ時、ゴドー検事は再びゆっくりと顔を上げた。
そこにはまた、あの不気味な笑いが張り付いていた。そして次に信じられないことを口にした。

「アンタの大事な親友をオレの前で抱きな」
「!!」

激しい怒りに目の前が赤く染まる。私は声を抑えることを一切せずに怒鳴り返した。

「貴様は……!気でも狂っているのか!」
「クッ……狂ってるのは気だけじゃないぜ?オレはもう、全てが狂っているのさ」

ゴドー検事はゴーグルに片手を添え、クッと笑う。
そして自分の言うことに反論する私の方が間違っているかのように答えた。

「なぜ私が貴様の命令を聞かなければならないのだ!」
「それもそうだな」

あっさりとゴドー検事は頷く。その飄々とした態度に、頭に血が上る。

「あんたが何をしようとオレには関係ねぇ。そこの弁護士も、被告も判決も……関係ねぇな」

その言葉に私は目を見開いた。ゴドー検事は吐き捨てるようにそう言うとまたカップに口をつける。
信じきれない思いで私はその男を見つめた。怒りで声が震える。

「貴様はまた法廷を投げ出すというのか!」
「クッ……アンタに命令される覚えはねぇぜ?」

皮肉めいた笑みを浮かべるゴドー検事を思い切り睨みつける。
私の握りしめた拳が怒りで震える様を愉快そうに見やり、ゴドー検事は再度笑った。
カップを持たない左手の人差し指を伸ばし、立ち尽くす私を指し示す。

「表面的なことしか知らないアンタが、検事席に立って正しい判決が得られることができるのかい?
 親友のまるほどうと二人で協力し合って犯人を見つけ出すか?」

そこまで言ってゴドー検事は声を出して笑う。できるはずがない、という意を言葉に含ませて。
しばらくしてゴドー検事は笑いを引っ込めた。

「あやめは有罪に、そして死刑となる。ま、アンタにとっては願ってもないことだろうけどな」
「何を……」
「アンタがその男を独り占めできるってことさ」

びくりと身体が揺れた。けれどもゴドー検事はその反応に全く驚くことなく、クッと笑う。

「誰にも気付かれていねぇと思っていたのか?」

皮肉交じりにそう囁かれ、屈辱と羞恥で何も言えなかった。
唇を噛みしめて鋭く睨み返す。私のその視線にゴドー検事は薄い笑いを返しただけだった。

「命令されたことにすればいい。オレはそれでも構わねえぜ?」
「貴様は……」

あまりの物言いに私はそれ以上言葉を続けることができなかった。
何を言っているのか、何を考えているのか。
推し量ろうにも彼の表情はゴーグルに阻まれて何もこちらに伝わってこない。
ただ言い様のない恐怖だけがこの男から漂ってくる。
何も情報がわからない、正体不明という存在がこんなにも恐ろしく感じることを、私は初めて知った。
言葉を失い立ち尽くす私にゴドー検事はまた口を開く。
そして何の感情もない口調でこう呟いた。

「オレは許せねえだけだ。……アンタも、まるほどうも」

その理由は何かと、尋ねるため顔を上げた瞬間。

「!」

鋭い音が暗い事務所に響き渡った。
私は開きかけた口をそのままに、ただ呆然と男を見つめることしかできなかった。
ゴドー検事は鮮血と褐色の液体に手のひらを汚して私を見る。
血の匂いが空気に乗って流れ、微かなものとして鼻に届く。
割れたカップと血を流す手と、ゴーグルで覆われた男の顔を交互に見つめた。
ゴーグルの向こう側の瞳と目が合う。あまりの衝撃と恐怖を感じ、思わず私は息を飲む。

「まだわかってねえのか?今のアンタには選択肢なんて用意されちゃいねえのさ」

凄むようにそう言われ何も反応を返すことができなかった。
この男が何を目的としているのか……全く持って理解できない。
ただひとつ、怒りの矛先だけがわかる。
それは少しも隠されておらず、目標に向かって一直線に向けられていた。
───私と成歩堂の二人に。

私はその男から視線を素早く外し、思いきり顔を背ける。

「クッ……いい子だな、ボウヤ」
「………」

耳に届いた嘲笑は聞こえないことにする。
背後に位置していたソファへと身体を向ける。ゆっくりと伸ばした手を青いスーツの肩に触れさせると、
長い間遠ざかっていた成歩堂の身体はいとも簡単に私の腕の中に落ちた。
目を閉じたままの彼を見つめる。 数時間前に病室で見た時と比べ顔色は随分いい。
ふとまつげが揺れ、成歩堂はゆっくりと目を開いた。
そして、いつものあの真っ直ぐな瞳で私を見つめ返す。
その様子に私は、数時間前に行われた彼とのやり取りを思い出した。


───御剣。頼みがある。彼女を……守ってほしい。


熱に浮かされつつも成歩堂が口にした名前は、たった一人の女性のものだった。
そしていつもより熱を持った指で、私の手のひらに弁護士バッジと勾玉を預ける。
高熱に朦朧としつつも強い意思を持った強い瞳に見つめられ、私はただ一度頷くことしかできなかった。

あの時のことを思い出した途端、どうしようもなく胸が痛んだ。

身体を持ち上げてソファに横たわる成歩堂の上に跨った。
手を伸ばし、成歩堂の頬に両手を添える。
成歩堂の瞳が心細げに揺れた後に私の表情を伺おうと上方に向かう。
初めて触れた頬はいつもの彼の体温よりも熱くて。
その頬をいとおしげに、優しく二回撫でた後。
そっと呟く。

───すまない、成歩堂」




 

 

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