2016年12月25日 ひょうたん湖公園
冬の公園は寒さのせいか閑散としている。しかしそれは昨日までのことで、今では警官たちが走り回っていた。殺人事件の現場となったのだ。無理もなかった。
「なるほどくん」
真宵ちゃんに袖を引っ張られ、視線を転じると物々しい雰囲気の中、見知った顔が見えた。捜査中であってもあまり怒ることのない糸鋸刑事が、我を忘れ部下に怒鳴り散らしていた。
一緒のものを見ていた真宵ちゃんが呟いた。
「イトノコさん……こわい」
ぼくは唇を噛み締めた。あの糸鋸刑事が珍しく焦っている。それだけで御剣の状況はあまり芳しくないものだと理解できた。
声を掛けると厳しい表情をちょっとだけ緩める。
簡単に話を聞いてみたものの、やはり状況は悪かった。警察ではもう御剣が犯人だと決めつけ、聞き込みもろくにされていないという。最悪なことに目撃者もいる。ぼくが法廷に立ったのはまだたったの三回だけど、ぼくの依頼人はどうしてこうもみんな崖っぷちなのだろう。御剣からはまだ弁護の依頼はないけれど。
捜査会議が行われるということで、糸鋸刑事は早々に去っていった。ぼくと真宵ちゃんはここに残り現場を調べることとなった。
でも、警察が先に捜査をしつくしているようでこれといったものは見つからなかった。出会ったのは湖面にカメラをセットした妙な女性一人くらいなものだった。完全な八方ふさがりにもはや溜息も出なかった。空を仰ぐ。
北風が目の前を激しい勢いで通り過ぎ、寒さを感じたぼくはコートの前を手で掴んで自分の身を守る。ふと、その下に意識が向いた。
今はワイシャツで隠れているけれど、この下の肌には痕が付けられている。言うまでもなくそれは御剣のものだ。
会ってから時間が経ち、随分薄くはなっている。けれども記憶の中では全く消えていなかった。
繋がった状態で付けられた。首筋、鎖骨に。汗ばんだ肌を強く吸われる痛みに抗議すると、獲物を見つけたといった様子で更に多くの箇所を吸われる。髪を引っ張ってでも止めさせようとすれば律動が激しくなり、その波に翻弄されてしまい抵抗を忘れる。
君の服を剥いで、今すぐこれを───
先程言われた言葉を思い出した。目を閉じるとそれだけで感触が甦ってくる。
「!」
後方からした物音に反射的に身体が跳ね上がる。振り返ると驚いた様子の真宵ちゃんが瞬きを繰り返す。
「どうしたの、なるほどくん。驚かせちゃった?」
「ああ……ごめん、何でもないよ。自動販売機、あった?」
「ないよー早く事務所戻ろう!それとも先に警察署に行ってみる?イトノコさん、会議終わってるかなぁ?」
かじかんで真っ赤になってしまった指先に自分の息を吹きかけながら真宵ちゃんは言う。そんな彼女に苦笑を向けつつぼくは歩き出した。他人の存在が自分の身体に纏わりついているかのような錯覚を振り払うようにして。
───馬鹿らしい。何を恐れてるというんだ。
自分にあの行為を強要した人物は今、留置所の中にいるというのに。
「……許さない」
真宵ちゃんに気付かれないよう小声で呟いた。視線は空々しいほど広く、堂々と横たわる湖へと向けて。御剣が殺人を犯したといわれる場所を睨み付けて。
身体に侵入されたという記憶はそう簡単には消せない。それを何度も強要させられたとすればなおさらだ。ぼくは、自分の抱えていた何かがあの行為によって黒く塗りつぶされてしまったことを今になって悟った。それは自尊心や男のプライドといったものたちだろう。
無理に足を開かされ、そこを存分に犯される。そして、肌に所有の痕を付けられる。
何てことのない時間もあの時のことを思い出してはびくびくと身体を震わせたり思い悩んだりしてしまう。眠れば、恐ろしいほど現実味を帯びた悪夢にうなされる。ぼくはあの行為によって、御剣の影という重い枷を背負うこととなってしまった。
自分をこんな風にした男。ぼくを好きに粉々にしたまま、また目の前から消えるつもりか。何も言わずに、ぼくから目を逸らして。
冬の空と湖と、風と。同じくらいに冷えた瞳をしながらぼくは一人決意する。
そんなのは許さない。御剣。ぼくはまだ、あんなことをする理由や検事になった経緯をひとつも教えてもらっていない。このまま引き下がるわけにはいかないのだ。
御剣。
ぼくが絶対、そこから引きずり出してやる。