さみしい毒薬
「お前なんかもう帰ってくるな」
どこかで聞き覚えのある台詞だ。似たような意味の言葉を以前、言われたような記憶がある。しかしその時の私は余裕がなく、記憶を遡らせるよりも先にぶつけられた台詞と共に自分が覚えた何とも言い難い鈍く胸をつく痛みを思い出し、眉をしかめた。
自分の放った言葉が私を不機嫌にさせたことに成歩堂は気が付かない。それも当然だろう。彼は私に背を向けているのだから。
私から見えるのは怒りを乗せた頬の線と、いまだ尖った黒い髪。あれだけ床に押し付け突き上げたというのに、ほんの少し乱れているだけで基本的な形は崩れていない。一体彼の髪の構造はどうなっているのか。
と、そんなどうでもいいことを考える。
そうでもしなければ私は、彼を怒鳴りつけているところなのだ。つい先程まではあんなにも愛し合い、共に果てたというのに。今頃は二人揃って横になった状態でまどろみ、唇をただ合わせるだけのキスをし、明日出発する私の体調を心配しつつも名残惜しそうに更なるキスをねだる成歩堂の身体に自分を沈めていたかもしれない。そう思うと今のこの状況は腹ただしいことこの上なかった。
海外と日本を頻繁に行き来するため、荷物整理をしたい。帰国の報告をした際に、そう漏らした私の自宅を成歩堂が申し訳なさそうな顔で訪ねたのは、今日の午前中のことだった。
整理したいと思っていたもののなかなか暇がなく、出発する前日になってようやく動いていた私は彼の来訪を歓迎した。が、扉を開いた瞬間絶望した。そこには成歩堂ともう一人、矢張がいたのだ。悪い人間ではないのだが、その性格ゆえトラブルを呼び込むことも多く、私は瞬時に明日の飛行機に乗れないかもしれないという覚悟も決めた。
矢張は私の部屋を好きに見て回り、人の集めている特撮ヒーローのフィギュアを指差して笑い、餞別と称して卑猥な雑誌の束を押し付けてきたりと、とにかく散々な暴れようだったが私と成歩堂の注意によってそれ以上の問題は起こさなかった。無駄口は叩いていたが男三人の手によって荷物は纏められ、日本に残すものと海外に送るものに分けることができた。
夜になり、例によって矢張は彼女と約束をしているらしく早々に帰ってしまったが、成歩堂は残り、最後の晩餐として二人で食事をした後部屋に戻り、酒を飲み交わし……必然的にセックスをした。
物の少ない私の部屋で抱き合う行為は、出発前夜ということもあり感傷に拍車をかける。だが、別離を控えているという現実を目の前にして私たちはお互いを求めずにはいられなかった。射精し、見つめ合いながらもキスをしたところまではいつもの成歩堂だったのだ。
しかし……
シャワーを軽く浴びてリビングに戻った私を待ち受けていたのは、何故か一人激怒した成歩堂だった。私の荷物を詰め込んだ、装飾も何もないダンボール箱を横目で睨み、成歩堂は吐き捨てるように言う。
「こんなに荷物を向こうへ送るってことは、もうあまりこっちには帰ってこないのか?」
「いや、そういうわけではないが……向こうで仕事しようにも資料が揃っていないと不便でな」
「海外にいた方が楽しそうだよな、お前」
「そんなことはない。正直、君と共に立つ法廷ほど手応えを感じるものはない」
「ふぅん。じゃあ、それ以外の価値はぼくにはないってことなんだ」
「誰もそんなことは言っていないだろう」
こちらを挑発するような成歩堂の物言いについ乗っかってしまった。不毛な言い合いの最後に、成歩堂が言い放ったのだ。お前なんかもう帰ってくるなと。
「……わかった。もう帰ってこない」
自分でも笑ってしまうほどの嘘だと思った。研修の期間が決められていて、三ヶ月もすれば私はまた日本に戻ってくる。そうすればまた私は彼と合い、彼を抱くのだろう。
しかしその時はそんな風には思えなかった。
苛立ちを感じた私は成歩堂から目を逸らす。逸らしたもののどこにも行き場はなく、多分矢張が詰め込んだのだろうきちんと封のされていない箱を無意味に睨み付けていた。
翌日海を渡り、慌しい日々を過ごしていたある日。私は思いも寄らぬ事件で日本へと呼び戻されたのだった。
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