レベル00

 それはとても心地よい時間だった。
 御剣の指がぼくの髪を。ぼくの指が御剣の髪を。撫でて、触って。二人で床に転がりつつ。
 まるで恋人同士が行う仲睦まじいじゃれ合いだ。いや、数分前に恋人同士になったんだからいいんだけど。
 そう思ってはみても違和感は拭いきれない。違和感というよりは抵抗感なのかもしれない。親友同士、幼馴染み同士、男同士、ライバル同士。今までの二人の関係から遠すぎるのだ。恋人同士なんてものは。
 そんな事を思った時、御剣がふと動いた。ぼくの唇にキスをひとつ落とす。
 ぼくはそれを黙って受け止めていた。奴の唇が自分のものに触れ合う瞬間にタイミングを合わせ、目を閉じたりして。
 親友でライバルだったはずの奴が自分にこんな事をして、嫌がるどころか嬉しいなんて感じてしまっている。おかしい。そう思うのに逃げられない。むしろ、時々ぶつかる互いの膝が何故だか妙に嬉しく感じて、わざと距離を詰めるような真似までしてしまっている。
 おかしい。改めて思った。でも、嫌じゃない。
 どうしてこんなことになったのだろう?数時間前、この部屋に訪れた時にはこんなことになるなんて想像もしていなかった。
 ……いや。本当に?
 もう一人の自分の声が頭に響いてぎくりとする。ぼくは自ら望んでここに来たというのだろうか。俄かには信じられない。
 御剣とキスをしつつも、慌てて記憶を遡らせてみる。こんなことになるまでの道筋を。
 ぼくと、御剣が、寝転んでキスを交わすことになったのは。







「君には計画性というものがないのだろうな」
 ビニール袋を足元に置き、御剣は呆れの溜息を吐き出した。手のひらに赤く残る、ビニール袋の跡を苦々しく見つめる御剣に向かってぼくは歯を見せて笑ってみせた。
「まあいいじゃないか。家の方がゆっくりできるだろ」
「ここは私の家なのだが……」
 食事に誘ったとはいえ、新人弁護士ながらに個人事務所を構える自分に金銭的な余裕はあまりない。飲みに行ったら数千円は使い果たしてしまう。考えあぐねた結果、ぼくが出した結論は家飲みだった。
「御剣の部屋は広いから十分だよ。一人暮らしのくせにソファなんて置いてあるし」
「家にソファがあるのは普通だろう」
「ぼくのワンルームにはこたつしかないよ」
 急に自宅へと友人を招く羽目になった御剣は少々納得がいかないようだった。けれども、ぼくのあの狭い自宅に招いて二人頭と膝をつき合わせて飲むよりはましだろう。
 眉をひそめる御剣の前でぼくはネクタイを緩めたワイシャツ姿でソファに寝そべっていた。ビニール袋から缶ビールを取り出しては口をつける。コンビニの弁当だって味はなかなかだ。黒いベストを身に付ける御剣はそれらのメニューにやっぱり納得できてなかったみたいだけど。
 ぼくにとってはとても贅沢な夕食だった。酒、食べ物、御剣。それらが揃ってるだけで。
 空腹だったせいか酒の回りが速い気がした。少ししか飲んでいないはずなのに。ぼくはソファに座ったまま目の前にあるテーブルに手を伸ばした。新しくビールの缶を開けるために。
 そこで、不思議なことが起きた。
 ぐるりと世界が反転したのだ。御剣の顔も取ろうとしていた缶も上質そうな布で出来たソファも。最終的にぼくはなぜか天井を見ていた。御剣の家の天井はこんな風になっているんだ。自分の部屋とは違って天井まで上品に見えるなぁ。ぼんやりとそんなことを考えていたら、天井しかなかった視界に御剣の慌てた顔が入り込んできた。
「大丈夫か、成歩堂!」
 そう声を掛けられてようやく悟った。酔ったせいかぼくは、ソファから転げ落ちてしまったらしい。言われてみれば背中とかひじが少し痛い。
「大丈夫だよ、高いところから落ちたわけでもないし」
「すごい音がしたぞ。頭は打ってないのか」
 冷静な御剣がおろおろとぼくを窺っている様子は珍しくて可笑しくて、酒の入ったぼくは身体を揺らして笑った。それが御剣には奇妙な反応に思えたのだろう。途端に眉間にヒビが生まれ、唇が真横に結ばれる。理由を言おうと動いた唇が、直前でぼくを裏切った。
「かわいいな」
 ぎょっと御剣が身を引いた。ぼくも自分自身の言葉に引いたのだけれど、寝転んだままでは何の反応もできなかった。
「な、か、…」
 そう言って御剣は絶句する。天才検事と謳われる彼がそんな言葉で誉められたのはたぶん初めての経験だろう。一応弁解しようともう一度唇を動かした。
「好き、だ。……御剣」
 言おうとしたことと、実際に耳に届いた声が。全然違っていた気がする。あれ?と頭を捻りつつも見上げる、御剣の表情に変化が現れる。
 みるみると御剣の顔が強張っていくのだ。それを見ているうちに、ぼくの脳にやっと今自分が発した言葉が届き始めた。
 すき。好き。好き?今ぼくは、一体何を言ってしまったんだ!
 血の気が引いていくようだったけれど、きっとたぶん酔ってるから顔色は赤いままだろう。ぼくは御剣の目前でごろりと寝転がりながらも絶望した。冗談でもたちが悪すぎる。全然面白くない。どうしよう。御剣、怒ったかも。自分は、冗談を言ったつもりはないんだけど。
 無言のままずるずると感情を垂れ流していたけれど、そこで一旦停止した。冗談を言ったつもりはない、ってことは。ぼくは御剣を。ぼくは御剣を本気でかわいいと思っていて、ぼくは御剣を本気で──
「成歩堂」
 思考の最中に投げ込まれた自分の名前に、ぼくは一瞬で我に返った。
 御剣は真顔でぼくを見下ろしていた。横たわるぼくの傍らで膝をついて。そのまま立ち上がり、ぼくの元から離れ、背中を向ける。
 そこまで具体的に想像していたぼくは、次にありえない光景を目にすることとなった。御剣の右手が伸び、ぼくの頬に触れたのだ。結ばれていた唇が解かれる。そこから飛び出した言葉はぼくの全てを一瞬で壊した。
「私も君が好きだ」
 真っ白になった頭の中に御剣の言葉だけが巡る。
 誰が、誰を?ぼくが、御剣を?御剣が、ぼくを?
 冷静に考えればそれは紛れもなく両思いという状態なんだろうけど、やっと自分の思いを自覚したぼくにとって、御剣からの告白は到底受け入れられるものではなかった。何がなんだかわからない。わからなくてぼくは、頬を御剣に触られたまま呆然と相手を見上げるだけだった。
「みつる……」
 気持ちの昂りに合わせて思わず呼んだ名前は、途中で遮られてしまう。
 御剣からキスされたのだ。あまりのことに目を閉じるのも忘れてしまった。御剣の、短いまつげが本当に近くで揺れる。それを信じられない気持ちでぼくは見ていた。見ていたというよりもただ視界に映していた。
 横たわるぼくと、片膝をつく御剣の距離はいつの間にか短くなっていた。御剣がその身体をぼくの横に移動させてきたのだ。
 御剣の指が、ぼくの髪を梳くように動く。その動きは双方の告白を前後に意味合いが変わってしまっていた。様子を見るためではなく、愛しさからくる仕草に。
 突然キスをされて、動揺はしてるけど少しも嫌ではなかった。知らなかった。ぼくは御剣を大事に思っていたけれど。それはいつの間にか友情以上のものになっていたのか。
 初めて自分の気持ちに気付き、何だか不思議な感覚だった。受け入れ難い状況に戸惑うどころか、ああそうかと納得できている自分が不思議で不思議で。
 御剣のぼくを頭を撫でる感触は、とても心地よい。好きな相手に髪を撫でられるのは気持ちのいいものだと改めて感じた。男同士でもそれは変わらないらしい。見た目的にはどうかと思うけど。
 黒目を動かして相手の様子を窺ってみる。ぼくの髪を撫でるだけの御剣もとても心地よさそうだった。目が合うと御剣はゆっくりと微笑んだ。その、今まで見たことのない表情で笑う親友にどきりとした。
 自分もそれが羨ましくなって御剣の、細い髪に指を絡ませてみた。他人の髪の持つ柔らかさに驚いて声を上げそうになった。
 御剣がまた距離を縮めてきたから、ぼくはつい自ら唇を差し出してしまった。ふっと小さく落ちる、御剣の唇と温度。それを堪能しようと目を閉じた。視覚が邪魔だと感じたのだ。
 だから、何の合図もなく舌が入ってきたのには面を食らってしまった。
 唇と唇が合わさる瞬間。甘い切なさと胸のときめきを味わう瞬間。ぼくはそれを目を閉じて受けているだけでよかったのに、急に現実を突きつけられたようで慌ててしまったのだ。
 中学生同士のような淡いキスが、舌が入ってきたことで肉欲を伴ったものへと一気に変化してしまった。
「御剣っ…ちょ、…!ん、ぅ」
 舌も言葉も御剣にからめとられる。押し返そうと腕を持ち上げる。横に寝そべっていたはずの御剣が、いつの間にか上から圧し掛かっている。
 焦って逃げようとする自分の舌が執拗に追いかけてくる御剣の舌に完全に巻き込まれている事を、ぼくは数秒後れて気付く。御剣の舌はざらりとしていて、温かかった。
 御剣の、舌。
 そう自覚した途端、体内が燃えるように熱くなっていった。腰の辺りがとりわけ熱くてむずがゆくなってくる。
 ああ、やばいぞこれは。ああ、でもすごく気持ちいい。すごく、すごく。
 腕の抵抗が弱くなり、全く無くなるどころかもっともっとと乞うように御剣の後頭部に回るのにはそう時間は掛からなかった。キスというよりは互いの舌と唇をぶつけ合うことを終え、離れた時には二人ともすっかり息が上がっていた。
(こ、これって……)
 背中を何だか妙な感覚がくすぐっていく。動かなくてもわかる。間違いなく、自分は今臨戦態勢に入ってしまっている。御剣にばれたらどうしよう。男はこういう時隠せないから困る。
 そんな不安がぼくに身動ぎをさせた。少しでも距離を取って、相手の身体と自分の身体が接触しないようにわずかに動いた。動いた、つもりだったのに。
「みっみつるぎ?」
 御剣の手がぼくの尻のあたりに回っていて少しの逃げも許されなかった。
「私は……君が好きだ」
 自分とは逆に距離を詰めてきた御剣が耳元で囁いた。好きだ、という言葉の時に反応して高鳴るぼくの心臓は正直だ。そして、更に昂る男の性も。正直すぎて、憎たらしい。
「ぼくも、好きだけど……でも、これは」
 そう言ってぼくは口ごもってしまった。
 自分にももちろん性欲はある。男同士という特異な関係性の場合、それはどのように作用するのかよくわからなかったけれど。
 でも御剣はその性欲と、性欲の向かうベクトルをぼくよりも早く上手く処理できていたらしい。すなわち、ぼくとセックスするという結論に一人先に達していた。
 ぐるぐると頭を回転させているぼくをひとり残して、御剣は動く。
「成歩堂、好きだ……」
 ぼくに言い聞かせるというよりは独り言のように。御剣が呟いてこちらに迫ってくる。視界いっぱいに御剣の顔が迫ってきて、やがて何も見えなくなった。

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