───ひょうたん湖にはヒョッシーがいる。
そんな馬鹿げた話を信じるのは子供だけで十分だ。
しかし私が思う以上に、世の中には愚かな者が溢れているようだった。
カサカサに乾いた新聞紙の切抜きと目の前の男たちの背中を無言のまま見比べる。
冷ややかな視線を向けて。
「ヒョッシー!出てこいー!」
「馬鹿だなぁ、成歩堂!呼んででてくるわけないっつーの!」
広々とした湖面に向かい、大声で喚く男が二人。
認めたくないが……二人とも私の古くからの友人である。
髪の毛をそれぞれの方向に尖らせた男二人は、後方であきれ返る私の存在を無視したまま叫び続ける。
「言っただろー?アレはよぉ、オレが飛ばしたボンベだっつーの」
「いやいやいや…ぼくはヒョッシーを信じるよ。事件の影にはヤッパリ矢張なんて迷信は信じないぞ…」
「おいおい、オレ、いつから迷信になったんだよ!」
くだらない会話に二人は声を合わせて大笑いした。
冷たい木枯らしが足元を通り過ぎ、首筋をくすぐる。それがさらに私の気持ちを冷ややかにさせた。
無駄だ、まともな私がこれ以上何を言っても。
忘年会という名に釣られのこのことやって来た自分が馬鹿だった。決して暇とは言えない師走の日々。
しかし、旧友からの誘いを無下に断るほど私は薄情ではない。
仕事を切り上げ、会場となる居酒屋に到着した私を成歩堂と矢張は立ち上がり手を叩いて歓迎した。
今思えば、彼らの笑顔の裏に秘められた企みを全く気付けなかった自分自身が情けない。
私自身ではなく私の懐をあてに喜んでいたのだと───酒に飲まれた二人にひょうたん湖に
連れてこられてやっと、私はその事実に気付くことができたのだった。
「どこ行くんだよ」
襟首を掴まれて身体のバランスが崩れる。
私は思い切り眉間にしわを寄せ、その相手を振り返った。
いつもならばその視線にたじろぎ、顔面から無数の汗を噴出す成歩堂が笑顔のまま私を見つめていた。
アルコールというものは人の感覚全てを麻痺させてしまうらしい。
何もわからない馬鹿に怒る事も馬鹿らしい……誰かに似た口癖を頭の中で恨めしげに唱え、私はため息をつく。
「盛り上がっている所大変申し訳ないが、明日も仕事なのでな。……そろそろ失礼する」
では、と言葉を繋げ歩き出そうとして。
にゅっと伸びてきた二本の手に私は絶句した。
右手を成歩堂、左手を矢張に捕まえられて私は足を止めざるを得なかった。
「何言ってるんだよ!」
「お楽しみはこれからじゃねぇか!」
スピーカーのような大音量で両耳に向けて同時に怒鳴られ、確かな目眩を感じた。
「ヒョッシーを見ねぇで帰る気かよ、ミツルギィ!」
「……そんなものいるはずがないだろう」
馬鹿らしすぎて怒鳴る気にもならない。何を言っているのだろう、この男たちは。
そう思った時、ふと右手の拘束が消えた。
その理由を確かめようと首を曲げると、成歩堂の後姿が湖面に並んで浮かぶボートへと向かっていた。
一番岸に近い手前のボートの縄をするすると外す。
その行動に唖然としていると背中を強く矢張に押された。
「き、貴様らは一体何をする気なのだ!」
「あん?ヒョッシーを探しに行くんだよ」
声を張り上げて身体の後ろにいる矢張を睨む。
私の鋭い眼力をもってしても矢張のへらへら笑いは治まる様子がない。
ぐいぐいと背中を容赦なく押され、私は成歩堂の待つボートの前へと進んだ。
それでもまだ押され、私は転倒するのを逃れるために湖に浮かぶ一艘のボートの中へと
足を踏み入れる事となってしまった。
成歩堂はそれを見届けると冷たい木の上に腰を下ろしてオールを握り締めた。
狼狽して目を見開く私を見つめ、笑うことなく真剣な表情で頷いた。
「行くよ、御剣」
「なぜ私がそのような事を…!」
「なんだ、こえーのか?御剣は」
最後に矢張が長く細い足をひょいと持ち上げ乗り込んでくる。
定員を超した為、水の上に重心を置いたボートは頼りなく揺らいだ。
足元が激しく揺れ、瞬間的に地震を思い出す。唇を噛みしめてその恐怖に耐えた。
「違う違う。コイツ、ボートとか揺れるやつ怖いんだよな。腰抜かしてるよ」
膝をついて無言のまま深呼吸を繰り返す私の頭上に成歩堂の声が降ってきた。
トラウマと心中を憶測され過剰な気遣いをされるのも迷惑な話だ。
が、何の悪びれもなく笑い話にされるのも不愉快極まりない。
あまりの事に私の全身の力は抜け切ってしまった。
ぐらぐらと安定の悪いボートを沖に運ぼうと成歩堂が大きくオールを回した時。
冬の闇を切り裂いてけたたましい音楽が流れ始めた。
矢張がポケットに手を突っ込みその音源を取り出して耳元に当てた。
「もしもしーあ、エミコか?」
先程の居酒屋で散々聞かされた新しい彼女からの電話らしい。
矢張は私たち二人の存在を無視して上機嫌で会話を始める。
「今?ダチと酒飲んだ帰り」
何の脈絡もなく矢張は立ち上がるとまた足をひょいと動かして岸へと降り立った。
バランスが崩れてボートが再び大きく傾く。私は叫び出しそうになるのを必死に堪えた。
「……そうそう、ヒョッシー。オマエ、知ってるか?ヒョッシー」
げらげら笑いながら矢張は右足でボートの縁を蹴る。
ガンガンと強い振動と共にボートは動き出し、その底は勢いよく湖面を滑り始めた。
せめてもの抵抗をと思い、ボートの縁を掴んで携帯電話を耳に当てる矢張を思い切り睨みつける。
けれどもボートは止まらない。
慌てて振り返ると成歩堂が馬鹿みたいにオールをぐるぐると回していた。
「ヒョッシーはおめぇらに任せたぜ!」
私の視線に気がつくと矢張は片手の親指をぐっと立てた。とても馬鹿らしい台詞と共に。
許されるのならば、声を上げて笑うこの男の息の根を止めてしまいたいとさえ思った。
私とこの男を隔てる水がなければ今すぐにでもその襟首を掴んで殴るのに。
気がつけばボートから岸はもうどうしようもないくらいに遠のいてしまっていた。
遠ざかる岸と矢張の姿を呆然と見つめていると、それに気がついた矢張が空いた手を楽しげにひらひらと振った。
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