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 テーブルに、音も立てずに置かれる皿。その上には美しく盛られた料理が乗っている。それはまるで一つの芸術作品のようで、ソースが描く模様を崩すのも惜しい。
 ぼくの向かい側に座る男はゆっくりとメインである牛肉を切り分けていった。小ぶりになった一切れを、口に運び。
「君も食べたまえ」
 そう言ってこちらを促す微笑み。ナプキンで口元をそっと拭うその仕草。どれをとっても上質で、上品だ。
 その男だけではない。一品ずつゆとりを持たせて出てくる料理、それを運ぶ給仕、窓の外に広がる夜景。ここにある全てから上質の匂いがした。
 耳に控えめに触れるのはピアノの旋律だ。中央に置かれた真っ黒なグランドピアノから生み出される、音。それに指を滑らせているのは若い女性で、ピアノの美しさに引けを取らないドレスを身に纏っている。
 ピアニストってこういうものだったんだな、とぼくは改めて思う。以前自分がそう名乗っていたなんて今思い返しても笑ってしまう。
「成歩堂?」
 そう名前を呼ばれて現実に引き戻される。少し前までは、こことは全く異なる薄暗いレストランでピアニストとして働く生活がぼくの現実だった。
 今は、こちらの方が現実になった。
「うん、美味しい」
「そうか。君の口に合ってよかった」
 御剣と同じ仕草で肉を切り分け、一口いただく。柔らかく溶けた肉に素直に感想を述べると御剣は満足げに微笑んだ。
 御剣が片手を上げると側に控えていた給仕がうやうやしく一本のボトルを持ってきた。あまり詳しくないけれど、きっとそれなりの値段がするものだろう。でもぼくが一番に気にしたのは銘柄でも値段でもなく、そのワインが作られた年だった。
「……お前も相変わらずキザなことするね」
「何のことだ?」
 ツッコミは涼しい顔で流されてしまう。水滴ひとつないグラスに注がれたワインに口をつけるよりも先に、まずは香りを吸い込む。鼻に残る濃い香りが漂った。とてもとても深い香りだ。──それは、八年前の。
 こくり、と二人それぞれワインを飲み込む。一言では言い表せない味に年月の重みを感じた。
 八年も前に閉じ込められていた香りが、栓を抜かれたことで外に流れ出していく。ぼくも似たようなものだ。八年前に弁護士バッジを剥奪され、一度は落ちぶれた。そこから這い上がり、再びこの胸には金色の小さなひまわりが飾られている。そこから新たに広がっていく世界は、まだ想像もつかない。
 身を包む深い赤とよく似た色のワインを飲んだ御剣は静かに微笑む。
「随分と長い休暇を取っていたようだな、君は」
「一応仕事はしていたよ。裁判所とは無縁の場所で」
「その代わり、君の事務所の新人弁護士が大変苦労していたように見受けられるが」
「検事局長さまに気に掛けていただいていたなんて、ウチの新人くんもなかなかすごいねえ」
 肩をすくめて笑うと御剣も再度微笑んだ。遠まわしの嫌味も皮肉も全てが冗談へと変わる。奴との会話は八年前と全く変わっていなかった。久しぶりの再会なのに。
 変わったことと言えば御剣が眼鏡を掛けたこと、赤いジャケットの裾が無駄に長くなったこと。そして、その立場だった。
「海外で遊び回ってると思ったら局長になんかなっててさ。ビックリしたよ」
「なんかとは何だなんかとは。それに私は遊び回っていたのではないぞ。検事の歩むべき道とは何かを探すために、私の理想とする法廷の……」
「ああ、うん、それは後でゆっくり聞くから」
 からかったのはぼくの方だけど、御剣がこの手の話を始めると無駄に長くなってしまうと記憶していた。やぶへびだと慌てたぼくが言葉を割り込ませると御剣は不服そうに口をむっつりと閉じた。
「今夜は久々の再会なんだし積もる話は後にしてくれよ。ま、とりあえず乾杯でもしとく?」
「ム」
 ワインが残るグラスを示して見せると気を取り直したのか、御剣も手にしたグラスを掲げる。そっと触れ合わせようとして、何に乾杯するかを決めてなかったことに気付く。どうしようとしばらく思案していると、御剣が先に思いついたのか胸の前にすっとグラスを運んだ。
「──見事蘇った成歩堂龍一弁護士に」
 御剣のさすがのキザっぷりに吹き出しそうになったけど、いつまでも茶化すのも子どもみたいでかっこ悪い。ぼくも気取ってグラスを持ち上げた。
「……新たに誕生した、御剣怜侍検事局長に」
 わずかにグラスを傾ける。八年前の時を知るワインがとろりと揺れた。ぼくと御剣。まるで、法廷で対峙していた時のように二人、互いに真っ直ぐに視線を絡ませて。
 どちらからともなく囁いた。
「八年ぶりの再会に」

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