ニアリーイコール

 十五年振りに再会した男は、激しい目でこちらを睨み付けていた。


「んっ! ……やめ、っ」
 唇と唇の隙間から発する声はもはや声じゃなかった。それでもぼくは言う。相手から逃れようと。必死に。
 相手も必死だった。それは両腕を押さえつける腕の力からも伝わってくる。それ以上に、ぼくの唇を覆うその唇が吐き出すその息が。荒くて、熱くて、激しくて。
「み、御剣…ッ!」
 やっとそれから逃れ、吐き出したぼくの呼び掛けに一瞬だけ相手の動きが止まった。額の真ん中で分けた長い前髪が乱れて御剣の目を隠している。ぼくはそれを覗き込もうとした。目だけじゃない。その心の内も。
「……黙れ」
「!」
 でもそれは叶わなかった。短い命令の後、顎を乱暴に掴まれる。咄嗟に押し返した腕は間に合わず、再びぼくの唇に御剣の唇が押し当てられた。
 どうしてこんなことをされるのか、全然わからなかった。キスというこの行為の本当の意味さえわからなくなる。御剣。御剣。唇だけでなく声を奪われたぼくは相手を睨み付けながら名前を叫んでいた。届け。届け。届いてくれ。――ああ、どうしてぼくの声は御剣に届かないんだろう? どうして、なぜ。
 とても間近にいるくせに目すら合わない。当たり前だ。御剣は硬く両目を瞑っていた。
 ぼくの声も呼び掛けも、ひとつも届いていない。受け取るつもりもないのだと。それはまるでぼくの全てを否定するために、ひたりと閉ざされているように見えた。





 事務所内の電話が一斉に鳴り始める。でも、ぼくの側にある所長室の電話はすぐに鳴り止む。受付の近くにある電話の受話器が先に上がったからだ。
「はい。成歩堂法律事務所です。……法律のご相談ですね。ありがとうございます。所長の成歩堂のスケジュールを確認いたしまして、こちらから改めて……」
 真宵ちゃんの明るい声は少し気取っていて、電話の向こう側の人からすればスーツ姿の聡明な女性が受け答えしていると勘違いするかもしれない。相変わらず法律事務所らしからぬ妙な和服とちょんまげ頭の真宵ちゃんは、相手との会話を滞りなく終えて受話器を置いた。メモをこちらに持ってきてくれる、と思ったら。
「よーし、なるほどくん! トノサマンのDVD、観るよ!」
 いやいやいや、と思わずぼくは突っ込んでしまう。立ち上がってデスクから離れ、事務室のソファに座った真宵ちゃんの元へと向かう。
「それより先にさっきの電話のメモ見せてくれよ」
「はい、これ。また調べたら教えてね。電話しとくから!」
 事務所の助手をしてくれている真宵ちゃんは、最初は何もわからなかったけれど、徐々に慣れて雑用や連絡をぼくの代わりにしてくれるようになっていた。すごく助かっているけど、この緊張感のなさはいいのか悪いのか。法律事務所的に。
 意気揚々とリモコンを操作する真宵ちゃんを見つめ、溜息をつく。それを拾ったのは当の本人ではなく隣に座る少女だった。
「なるほどくん。わたくし、おジャマではないですか?」
「いや、そんなことないよ、春美ちゃん」
 困ったような表情で、右手を口元に添える。真宵ちゃんよりもよっぽど大人びた仕草でぼくを見上げているのは春美ちゃんだ。首を振ってそう答えてやると、よかったです! と嬉しそうに笑顔が弾けた。
「はみちゃんがせっかく来てくれてるんだから、仕事よりトノサマンでしょ。ホラホラなるほどくん、そこに座る!」
「わたくし、とっても楽しみです!」
 色々と突っ込みどころがあるけど、ぼくはやれやれとぼやきつつその指示に従った。幸い今は受け持っている裁判もないし、比較的忙しくない時期だった。
 テレビが真正面からよく見える、ベストポジションに置いたソファに三人、横並びで座ってトノサマンを鑑賞する。もしこの光景を千尋さんが見ていたらどう言うのだろう? ぼくだけ怒られるかもしれない……確認するように、ぼくは白熱する二人の横でちらりと視線を動かして窓際の観葉植物を見る。チャーリーくんは午後の穏やかな陽光に包まれて優しく佇んでいた。
 ろくに観ていない内にトノサマンのDVDとやらは終わり、春美ちゃんは満足げにふぅと息をついた。
「とってもおもしろかったですわ、真宵さま!」
「ううん。でもでも、この次の劇場版がもっともっとかっこいいんだよ」
 一方の真宵ちゃんは少々不満気だ。どうでもいいだろ、と一人でそっぽを向くぼくには触れず、そうだ! とピンク色の携帯電話を取り出した。
「御剣検事なら持ってるかも! メールで聞いてみようか」
 驚いたのは春美ちゃんじゃなくてぼくだった。
 目を剥いて振り返ったぼくを真宵ちゃんはきょとんとして見つめる。
「ま、待った! 御剣検事って、あの御剣のことか?」
「御剣検事って『あの』とか『どの』とか。たくさんいるの?」
「いやいやいや。そういうことじゃなくて」
 あまりの驚きにソファからずり落ちそうになっているぼくを春美ちゃんの小さな手が引き留めてくれる。ぼくはありがとうとお礼を言いつつ、真宵ちゃんに突っ込んでいた。
 ぼくの様子に目を丸くしていた真宵ちゃんだけど、何かに気付いたようにぽんと手を叩いた。
「なるほどくんと御剣検事、まだケンカしてるの?」
「してないよ! あいつが勝手に怒ってるだけだよ」


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