御剣の家からは空がよく見える。

家と言ってもマンションの一室で、空と言っても都会の空だ。海が見えるとか夕焼けとかそんなたいそうなものではない。
それでもぼくの住むワンルームからは決してお目にかかれない景色だ。見るのはこれで最後になるだろうから、アルコールと眠気でとろりとしている両目を開く努力をしつつ空を見上げていた。部屋で一番大きな窓の側。フローリングの床に直接座りながら。
そういえば奴の執務室も妙に高いところにあったっけ。馬鹿は高いところが好きっていうアレなのかもしれない。そう思った。思っただけで口には出さないけど。
代わりに持っていた缶ビールの縁を口に押し当てた。ぐいと首を伸ばすとぬるくなった苦味が喉の奥に滑り落ちていった。

「飲みすぎではないか?」

隣にいた御剣が眉をしかめてぼくを見た。自分と同じように床に直接座る御剣が何だか珍しくて面白くて、思わず吹き出してしまった。だから飲みすぎと言ったのだ、と御剣は大真面目な顔で呟いた。それが余計に可笑しくてぼくは笑うのをやめなかった。呆れた御剣はぼくからさっさと視線を外して缶に口をつける。それもまたぼくが持っているのと同じ、缶ビール。
ぼくと御剣は向かい合うわけでもなく語り合うわけでもなく、ただ並んで黙々とそれぞれの酒を煽っていた。

明日、御剣は日本を離れる。

真宵ちゃんや糸鋸刑事たちとの送別会は昨日の夜に済ませたから、今日はぼくの主催するささやかな餞別パーティーというわけだ。
開催地となった御剣の部屋は引っ越す準備がもう全て終わっているから、ソファも食器もグラスもない。だからこうして床にそのまま座り、コンビニで買ってきた缶ビールと安いつまみをちびちびと楽しんでいるのだ。
ぽかんと眼前に横たわるだけの夜空から目をはなし、部屋の中を見渡す。
物が撤去されてすっきりとした部屋はもう、居住空間というよりはもぬけの殻と呼んだ方が相応しい。
いつかまた帰ってくるのなら、部屋も家具もそのままにしておけばいいのに。
そう言ったぼくの提案はすぐに却下された。いつ帰ってくるかわからないのだ。そんな御剣のあっさりとした一言によって。
部屋を無言で見渡した後、明日の朝までこの部屋の主である御剣の元へと視線を落ち着かせた。
御剣はぼくに構わずに夜空を見上げていた。
月を映す御剣の瞳は何だかきらきらと輝いているように見える。まるで遠足を心待ちにする子供のように。

「そんなに、すごいの?海外研修って」

海外研修なんて自分に縁がなさすぎて内容が全く想像できない。あいまいな言葉で尋ねたぼくをちらりと見て、御剣は笑った。嫌味を含んだ微笑みで。

「君は国内の法廷にしか立ったことがないだろう。私は今までに何度かアメリカの法廷を傍聴したことがある。見るたびに自分の至らなさを気付かされるが、その分吸収できるものがたくさんあるのだ。その機会を検事局から与えられるとは、普通ならばいくら望んでも叶わないことなのだよ」

御剣の声は静かなのにその底には深い熱意が込められていて、奴がそれをどんなに求めていたのか、どんなに期待をしているのかが。聞いていたぼくにもはっきりと伝わった。
わかったから、何も言えなくなってしまう。

「それに……こんな狭い国の法廷で君とばかり顔を合わせるのにも飽きたしな」

ぼくの無言をどうとったかは知らないけど、最後に御剣は冗談めかした言葉を付け加えた。ぼくもそれに合わせて返す。

「ぼくとやっても負けるだけだしね」
「貴様は練習台だ」

ふん、と鼻を鳴らして御剣は言う。ひどいなぁ、と思わず呟いてしまう。ぼくの頬に浮かんだ苦笑を見て御剣はそっと微笑んだ。

── ひどいなぁ。ひどいよ。ぼくを置いていってしまうなんて。

その一言は言えなかった。いつだって、練習じゃない気持ちを君に持っていたぼくは、本当のことなんて言えやしない。ぼくにとって君は君だけで、君以外の誰にも敵わない。
ぼくが探すのはたった一人。御剣、君だけだ。
でもそれだけは言えない。壊れるのが怖いから。本当のこと言って、うまくいかなくて。一生会えなくなるのが、ただただ怖いから。

「これから私は様々な国の法廷に立つつもりだ。海の外に出て、様々な弁護士と向かい合って理想の検事の在り方を追究するために」

ぼくの目の前で御剣の唇が動いて揺るぐことのない意志を宣言した。ああそう、と口の中だけで呟く。ちくんとした胸の痛みを感じながら。

「御剣」

思わず呟いていた。御剣の細い瞳が彼を呼んだぼくを見つめ返す。
もう夜も深く、しんとした空気の中。月も夜も闇も、全てのものが止まっていたその世界で。動いたのはぼくだけだった。
御剣の唇にそっと自分の唇を触れさせた。その瞬間を何度も思い浮かべ感触を想像していた唇は思っていたよりも温かかった。

「君はこれからたくさんの弁護士に会うんだろ?」

月の光に照らされた御剣の頬が白い。その頬に触れながら囁いた。
そして、身勝手な祈りと願いを口にする。

「その人たちのことは、みんなぼくだと思ってよ」

ぼくだけが君を、君の求める理想の世界へと連れていくから。

「成歩堂……?」

突然のことに御剣の瞳が戸惑いで揺れていた。説明を求めようと微かに動いた唇から目を逸らして逃げた。
逃げたまま、別離の言葉を口にした。

「さよなら」

聞いてる自分でも息苦しくなるような掠れた声。
それはまるで深い海の中で響いたように篭った声だった。






さよなら。さよなら。
ぼくのことをいつも思い出して。
絶対忘れないで。